『この世界の片隅に』を観て、想ったこと、感じたこと。
『この世界の片隅に』を観てきました。
「日々を生きるということを突きつけられた」気がします。
すごく抽象的であるうえに、自己撞着したような感想ですが、私が感じたことはこの言葉に収斂されると思います。
「突きつけられた」という言葉を使っていますが、押し付けがましいものではありません。描かれているのは、戦争前から戦争直後を生きた、ごく当たり前の人々の生き方の一つです。そこには、「ここ(の場面)(の描写)に特に注目してほしい」というようなメッセージも感じられません。「ある時代、ある場所で、このようにして生きる人々がいました。」本当に、これだけだと思うんです。
あたたかい映画だった。そして、背筋が伸びる思いがした。
人は人と支え合って生きていた。衣・食・住、まかなえるものはすべてじぶんたちでまかなっていた。人は木と違う。「人木石に非ず」というのは、木石よりも人を優位とした思想だ。だがどうだろう、木はひとりでちゃんと立っていられるじゃないか。石は他の石を求めることはないじゃないか。人はひとりで立つことすらできない。支え合って、頼りあって、求めあって生きている。それがそもそも「人」という字のおこりだろう。そして、ひと昔前、人は、じぶんで生きるために必要なことは、おかねをバンッとおいて解決するのではなくて、まず自分たちの手で、できることをしようとしていたのだ。着るものは、自らの手で仕立てるところからはじめる。その技は、親から子、あるいは祖父母から孫へと、手から手に受け継がれていく。いま私たちは、どこの誰が作ったのかわからない、身体に絶妙に合わない既成服をきている。一枚の布から、じぶんの身体に合う「もんぺ」をつくること、これができる人が今どれだけいるというのだろう。住まいのことも、そうだ。みんな火を焚くところから、天候を気にしながら洗濯物を洗い、干すことからはじめる。ボタンひとつでご飯ができることもないし、お風呂も沸かすことができない。虫だって入ってくるから、砂糖は高いところに置く、蚊帳を吊るす。防空壕も、じぶんたちで作り上げる。食に関しては、最も暗鬱たる気分になった。いま当たり前にお金と交換して入手できることができる食べものが手に入れられなくなったとしたら、私は生きる術を知らない。食べられる草をどうやって判断し、見つけ、調理するというのだろう。それら知恵を教えてくれるのは、人だ、その人の口だ、手だ。家族もそう、ご近所の人もそう。みんなでみんなにお互いさまだと教え合っていた。そうやって、生きる術をわがものとしていた。皆、限られた食ざいを一生懸命工夫して、これはまずい、これはうまいをいいあって、試行錯誤しながら学んできた。
そうだ、「突きつけられた」という言葉を、もう少し率直に言い表すとしたら、「ただただ羨ましかった」だろうか。その羨ましさは、映画で描かれていた人々の<生きるという手仕事>の引き受けかたに、魅せられていたからかもしれない。
太平洋戦争の不穏な足跡が日常にも侵攻してきた時でも、人々の心の中に権力の支配は決して及ばなかった。戦争が終わった時、人々は自らの感情に素直に、言いようのない怒りを露わにした。わたしは詩人・長田弘『失われた時代』の言葉を思い出す。
…1930年代の日本をもっともよく生きた詩人のひとりだった伊東静雄は、敗戦後、復員してすぐ軍服のままたずねてきた若い作家が、戦争中右翼的なことを強く主張し指導者面をしていた連中が早くもアメリカ仕込みの民主主義の指導者面をしていることに対する不快感を述べると、人間はそれでいいのですよ、共産主義がさかんな時は共産主義化し、右翼がさかんな時は右翼化し、民主主義が栄えてくれば民主主義になるのが本当の庶民というもので、それだからいいのですと、その軍服姿を戦争中のいやな軍部の亡霊をみたように不快がって、若い作家をおどろかせた、といわれる。
その挿話はわたしにはとても印象的な記憶としてのこっているが、しかしこの伊東静雄のような「庶民」のとらえかたは、わたしにはまさに「本当の庶民」像の倒錯にすぎないようにおもわれた。わたしのかんがえは、ちがう。「本当の庶民」ということをいうならば、共産主義の時代がこようと右翼がさかんな時世がこようと、人びとはけっして「共産主義化」も「右翼化」も「民主主義化」もせず、みずからの人生を、いま、ここに<生きるという手仕事>として果たしてゆくほかないだろうからだ。
<生きるという手仕事>を果たすという生きかたは、だから、そのときそのときの支配の言葉をひさいで生きのびてゆく生きかたを、みずから阻んで生きるわたしの生きかたなのだ。
[…]その行為は意識的にせよ無意識にせよ、社会の支配をささえるようにみえながら同時に社会の支配をみかえす無名の行為のひとつとして、社会の支配のついにおよばない自由を生きる本質をふかくそなえていたはずだ。…
時世が変わればそれに人々が阿諛追従するなど、それこそ「本当に庶民」像の倒錯だと喝破するのが快い。人はそんなにやすやすと変わりはしない。しっかと地に足つけて、その身相応に「手仕事」を引き受けわがものとするのが人というものだ。そうして、ただただ「みんな笑顔で暮らす」道を模索し続けるのだ。
映画の中で、すずが軍艦を写生しているところを憲兵達が咎める場面がある。憲兵はすずの家のもの全員に、これがいかに恥知らずな行為であるかを大真面目に説いて叱責し、それを聞いてすずの一家は顔を真っ赤にして震えて聞いている。その場面だけを見ると、あまり知識のないわたしは、憲兵に怯えているのかと思っていたのだが、実際はその時、みんな必死に笑うのををこらえていたのだった。「軍艦を遠くから写生するだけで一体何の機密が漏洩できるって言うんだい」と、(すず以外)みんな抱腹絶倒する。また、別の場面、すずがお義父さんのお見舞いに病院に伺った時、寝台の一角に備えられたLPレコード盤から流れる「敵性音楽」のジャズに患者達がうっとりと聴き入っていた…。
そうなのだ、「庶民」の精神は、そうやすやすと「権力」には支配されない。
その精神は、「社会の支配のついにおよばない自由を生きる本質をふかくそなえている」というのは、
まさにこの映画の中で主だって描かれるすずとその周辺の人々の生きざまにふさわしく、贈るべき言葉であって、
だからこそわたしは、わたし自身この「自由を生きる本質をふかくそなえ」た生きかたに憧れる者として、
当たり前の日常を描かれることが、わたしにとっては激しい嫉妬を生じさせるような、
あざとい「みせつけ」に感じられ、悶えたのだと理屈をつけようと思う。
…生きることをじぶんにとっての<生きるという手仕事>として引き受けること[…]
それがどんなにいかなる政治体制のもとに圧されて果たされる生であるようにみえ、また「血も流さなきゃ、祖国を救いもしない」生にみえようと、ひとがみずからの生を<生きるという手仕事>として引き受け、果たしてゆくかぎり、そこにはけっして支配の論理によって組織され、正統化され、補完されえないわたしたちの<生きるという手仕事>の自由の根拠がある、という考えにわたしは立ちたい。<生きるという手仕事>は、それがどんなにひっそりと実現されるものであろうと、権力の支配のしたにじっとかがむようにみえ、しかしどんな瞬間にもどこまでも権力の支配の上をゆこうとするのだ。
今までわたしが学んだ歴史とは、庶民の目に映った日常を奪い去ったまがいものの集まりなのかと疑わざると得なかった。戦時中のいかなる標語(例えば「欲しがりません、勝つまでは。」など)も、権力側のイメージ操作の喧伝にすぎなかったのか。ああしろこうしろと権力側に言われても、その権力側が何をしているのか、戦争に勝っているのか負けているのか全くわからない。だけど、そのわからない中で、「いま、ここ」を生き抜くために、自らの<生きるという手仕事>を引き受ける姿勢というものは、私にはとても格好良く映った。
玉音放送で戦争が終わったことが告げられた時、私たちが歴史の教科書等で目にするのは、地面に突っ伏して、天皇陛下に土下座をしていると思わせられるような姿ばかりだ。でも、決してそうではない。「本当の庶民」は、天皇陛下という、善悪つかぬ抽象的な象徴に何の感情も持ちあわせてはいない。映画の中で、玉音放送が終わった時、すずの家族はみな平然とした風に、「さ、戻りましょう。」といつもの日常に戻っていった。だがそこに、感情がなかったわけではない。「土下座」は、確かにあった。だがその「土下座」は、悲しみは、怒りは、爆弾で失った我が子や、「みんなで笑顔で暮らす」生活を理由のない暴力で奪い去った戦争に対してだった。
私は、すず達に激励の言葉を贈りたいと思う。それはまず、あなた達の生き方が私に勇気とも嫉妬とも言えない妙な力を与えてくれたことへの感謝の言葉だ。そして、あなたたちの生き方は、権力の支配に従うようにみえながらそれを超越した自由なこころを備えているのだという畏敬の言葉だ。あなた達は、とても立派でした。わたしは、自ら信ずるところに従い、少しでもあなたたちに見習い、わたしの<生きるという手仕事>を全うしていきたいと思います。
『永い言い訳』を観て、感じたこと、考えたこと。
「悲しみをきちんと引き受けるということ」について考えさせられる物語でした。これはフロイトが「対象喪失」と「悲哀の仕事」という言葉を使って説明してくれているみたいですね(原典にあたっていない)。例えば、神戸児童連続殺傷事件の犯人である「少年A」なんかは、この「対象喪失」からの「悲哀の仕事」を「適切に」全うすることが出来ずに成長してしまった例として、(そしてそれによって悲惨な事件を起こしてしまったという因果関係で)各種報告書(高山文彦『「少年A 」14歳の肖像』新潮社、2001など)には記載されてますね。
「悲しみを引き受ける」ということは、小説家・村上春樹もよく彼の小説で表現していることですよね。彼の最新短編集『女のいない男たち』の中で大好きな、(いや彼の短編小説全体でも大好きな)彼の短編小説「木野」は、妻を失った男が、その悲しみを適切に引き受けなかったことによって彼自身が損なわれ苦しんでゆく底無しに悲しい物語だし、また、重きが「引き受ける(打ちのめされる)」ところから「立ち直る」に移る過程でいうと、同じく私の大好きな中長編小説『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は、友による裏切りによって毎日死ぬことばかり考えていた青年が自らを回復させようと「巡礼の旅」に赴く物語だよね。
(私の映画の感想ではいっつも村上春樹の作品が顔をひょっこりみせているし、今回も村上春樹のステマかよって思われるような、本作に全く触れないイントロだったけど、それくらいテーマの共鳴度が私にとって大きかったということ。)
私はこの映画を、というかこの映画の衣笠幸男を観るのが辛かった。それはまるで自分をみているような、自分の声をカセットテープを通じて聞いているような、不快な感覚だった。私は彼が嫌いだ。ほとんど憎んでさえいる。それは取りも直さず、自覚している自らの一番嫌な本性を、人前で勝手にひけらかされているような侮辱的な感覚を伴ったからだった。
衣笠幸男は作家だ。弔辞や、失った妻についての様々な問いかけにこたえる作家の言葉が、あれほど空虚に感じるのだから滑稽だった。そもそも何も思っていない、何も感じていない、本当にからっぽなのだから、何も出てきやしないのに。それをそれっぽく繕って言葉を紡ぎ出しても、空回りするばかりだ。インタビューで語る言葉、失った妻の同級生の夫、陽一さんを励ますような言葉、陽一さんの息子・健心くんへのアドバイスのような言葉、それら全てが、彼の「醜い」部分を知っている我々観客には空虚に聞こえるし、綺麗事ばかりを作家的言葉を駆使して述べる彼に「じゃ、お前は、お前の実際は、どうなんだよ」と問わずにはいられない。
必死に「演技」しようと努める彼も、ドキュメンタリーの撮影風景での彼より様子をみていれば分かるように、自らが「演技」することを強いられることは好まないし、自分は人を愛さなくても、人には愛されていなければならない。余りにも身勝手で空虚な生き方に、愛人すらも愛想を尽かす。「あなたは、いま私を抱いているんじゃない。」という言葉は、坂口安吾の短編小説「私は海をだきしめていたい」を思い出させる。ここで「海」は、不感の象徴である。
だかしかし、そんなことは、つまり彼の「醜い」部分は、彼が彼自身で一番よく分かっている。だからこそ、彼は語気を荒げて、その「醜い」自分を、「それっぽい言葉」を駆使しながら、必死にかばおうとする。親類を失い悲しみに暮れていた自分を救ってくれたという、ドキュメンタリーでの「演技」で語られた、衣笠の上っ面で作家的な有難い言葉に、親しみと共感を込めて衣笠に近寄づいてきたこども科学館の学芸員・山田さんに向かって、怯えに似たような表情を見せながら、幸男は「口ではどうとでも言えますよね。」と嘲笑さえ浮かべて突き放す。しかし、「幻滅させました?ごめんなさいね。」とおもてヅラは飄々として突き放した彼も、どこかで自分のこの「醜い」部分を晒し出したい衝動に駆られながらも、隠し通すしかない自分に嫌気が差していたのではなかったか。宴会で泥酔した彼の言葉の節々からは、「誰も「本当の俺」を分かってくれない」ということに、ある種恍惚にも似た自己満足しながらも、自己嫌悪に陥り、苛立ち、寂しがってさえいるように感じたのは私だけだろうか。
それに対して、陽一の対象喪失への反応は「まっすぐ」だった。失った妻を直向きに愛していた、やましいこともしていない陽一が語る悲哀は、幸男のそれとははっきりとしたコントラストを生み出していたし、それが幸男にとっては何よりも辛かったことではないだろうか。つまり、自らの家に頻繁に出入りしながらも幸男の葛藤について何一つ知らない陽一と、その陽一が遠慮なく露わにする悲哀の感情を作家的言葉で慰める心労を迫られる幸男とが一見良好にみえる交流を続けるよって、幸男のコンプレックスが悪化するのは明らかだし、この「わだかまり」がいつか爆発しないわけがない。
けれど重要なことは、(幸男が感じているのが「コンプレックス」だなんて今言ったばかりだけど、)物語全体を通して、「どちらが正しいのか」なんていうことを考えさせようとしているのではないようだということだろう。あくまで「どっちの生き方だってあるんだよ」という、一つの提示に留まっているに過ぎない。物語世界全体を貫くこの軸は、子供を持つことについての是非についての作中の議論をきけば明らかだろう。どっちの生き方だってある。けど、どっちの生き方だって苦労はあるんだよ、ということ。(「苦労」や「不幸」については語られても、「幸福」については「必ずしも不幸ではない」という、「不幸」否定形で語られるに留まり、直接積極的にはには語られていなかったように思う。)
さて、物語が進むにつれて、幸男(と彼の家庭)と幸男の間にある根本的な生き方の差異によって生じる「しこり」のようなものが大きくなってゆく。そしてその「しこり」の明滅と共に、物語は大きく波打つ。特に幸男が陽一に自らの「醜い」部分を晒け出してから、彼の言葉に微妙な変化がみえる。言葉が虚から実へと向かうような感覚。特に、父を迎えにいく電車内での健心と幸男との対話で。幸男が、まるで健心を鏡としているかのように、健心に語りかける自らの言葉を、一言一言噛みしめるカンジが伝わってきて、なんとなくだけど、「彼はこれから変わるんだな」と感じた。陽一も陽一で、「醜い」幸男の生き方を決してあからさまに否定はしなかった。新作発表記念のパーティで、にっこりと彼に微笑みかけていたのだから。
内面の変化と、外面の変化はシンクロするもの。まずは髪を切るというところから。妻の葬式で「これから私の髪は誰が切ってくれるのでしょうか。」と幸男はいう。それから幸男は一年、髪を切らなかった。妻がオーナーを務めていた、妻のことを慕っていた美容院のスタッフからは、理屈をつけて妻のお見送りをさせなかったからだろうか、幸男は嫌われている。まずはこの美容院に足を運ぶことから、彼は一歩を踏み出したのかもしれない。そして、部屋の片付け。妻の死後以降部屋は荒れ放題だったが、きちんと片付けをする。妻の遺品も整理する。気持ちの整理とは、必ず身の回りの物理的な整理具合と呼応するものである。このような「巡礼」を経て、何かが変わるという予感はあるが、それが何かは分からないままに、物語は幕をとじた。
私は、人間は「醜い」部分があってもいいと思うし、言っていることと行っていることが矛盾していたって構わないと思っている。私は、むしろそういう倒錯した人間のほうが惹かれるし、弱いくせに強がった口を利く人なんか大好きなくらいだ。(そして私は、傲慢な言い方かもしれないけど、そういう「人前でインモラル発言を連発して悪態吐く、弱くて繊細なくせに強気な人」と一対一でじっくり話すと、必ずと言っていいほど「お前といると落ち着く」と言われたし、僕もいちいち心臓に悪いけど嫌いじゃないと思ってきた。)だって。「普通」で「綺麗」な人なんて、正直つまらない。
私は私のことをひどい人間だと思うことがある。恥ずかしくなるくらい、冷酷・残酷だと思うことがある。でもそのくせ、涙脆いところだってある。人の優しさに触れてキューっと胸が締め付けられる、人知れず微笑むことだってある。一方で、人にやさしくされると冷たくあしらいたくなるし(例えば今私はホスピタリティの高さで定評のあるスタバにいるけれど、愛想よくされればされるほど冷たく対応したい子供染みた衝動に襲われることが多い)、人にやさしくして冷たくあしらわれると、その人をとことん憎む人間でもある。そんな私が、私、案外好きだ。なぜなら、私はそれを上手くコントロールしていると思うからだ。でもちゃんとコントロールするためには、とんでもない量のエネルギーがいる。自らの真っ黒い部分と真っ白い部分とそれ以外の部分をうまく統率して自分が自分のせいで分裂してしまわないように、ものすごいエネルギーがいるんです。そしてそのエネルギーの補給のために、私は物語の世界に飛び込むのだと今日、なぜか、本作を観て、感想をぽちぽちとまとめながら、確信出来たような気がします。物語は私たちに、どのようにして生きるかという一例を示してくれるからです。それが「あり得そう」とか「あり得ない」とか、そんなのどうだっていい。「こんな生き方もあるんだ。」と教えてくれることで、そして未知の生き方を求めて飽きもせずページを繰ることで、このろくでもない自分とろくでもない世界を強かに生きようと、私はこれから何度も、何度だって思うのだと思う。
最果タヒさんのエッセイ集『きみの言い訳は最高の芸術』の中でタヒさんは言う。「生きることは、言い訳をすること。」なんて端的で、清々しい定義の仕方なのだろう。私たちは自らの「生きる」という行為に対して、生まれてから死ぬまでずっと続く「永い言い訳」をするのだ。そして私は、私なら、その「言い訳」が、たとえそれがどんなに「怯懦で迂遠」にみえる生き方であっても、自分でもとんでもなく醜いと思う生き方であっても、その「言い訳」を「素敵ですね」だとか「最高の芸術」だとか言ってくれる、そのただ一人でもいいからその一人と出会うために、そしてその出会いを大切にするためだけに懸命に生きるような、そんな人生を積極的に歩んでいきたいという思いを新たにしました。
以上、京都Porta店のスターバックスより、iPhoneでぽちぽちと打っておりましたが、そろそろ疲れたので帰ります。おやすみなさい。Thanks for Thanksgiving Day!
同志社第三劇場による『ミミズクと夜の王』を観て、感じたこと。
同志社第三劇場さんによる『ミミズクと夜の王』(「ねぇ、あたしのこと、たべてくれませんか?」死にたがりやのミミズクと、人間嫌いの夜の王。すべての始まりは、美しい月夜だった。)を観てきました。
場所を確認もせずクローバーホールだろうとなぜか確信してズカズカと歩みを進めていったらもぬけの殻で、確認したら学生会館別館だとわかり、開演間際ということもあって、猛ダッシュしました(開演時間に間に合わなかったら入場できないという点は確認していた)。人に観てきて欲しいと頼まれたものだったので、新町キャンパスに着いたものの会場に行ったことがなくてどこやねんっとなった私は半ばヤケになってほくそ笑みながら、万が一観れなかった時の言い訳をどうしようか考えたりしていました。結果、とりあえず間に合ってよかった。そういえば、今出川駅から地上に出た時、今出川キャンパス越しに見えた月がとても綺麗でした。
さて、気を取り直して内容に関しての感想を書いてみたいと思います。※引用のセリフや具体的なストーリー内容については、筆者の記憶を元にしているため、正確ではない場合があります。
わたしがこの演劇を観て受けた印象を一言にまとめると、人のこころの不可思議さとそのエネルギーを、豊かなアレゴリーを含む物語で表現した作品だと感じた、ということになるでしょうか。
物語の舞台は中世ヨーロッパ都市を彷彿とさせる(行ったことないけど!世界史の資料集で見ただけだけど!)。都市の中で、人々は資本主義の原理で、市場(いちば)の中で生計を立て、暮らしている。一方で、人々の暮らしを一歩隔てたところには深い森があり、その中には魔物がいて、そのトップに強力な魔力を有する「夜の王」がいて、人々は恐れ、嫌っている。物語は、その「夜の王」に、「ミミズク」と自らを名付けた素性のしれない少女が、わたしを食べてくださいという旨の突拍子もない懇願をするところからはじまる。
この劇を観て、わたしにとって印象的だったことをもう少し具体的に表現するとすれば、ひとつは、ひとが自らの中に育む意識的無意識的な「記憶」を引き受けることの難しさと大切さ、そしてもうひとつは、「魔力」という言葉に委ねられた、ひとの感情が有するエネルギーがいかに大きいかということだと思います。
「記憶」ということについては、昨今観た『君の名は。』を思い出させずにはいられない。どこか自分という存在の奥深いところに、忘れ去られた物語が横たわるように沈んでいるという確信。その物語が、ある瞬間、ある刺激を契機に、ふとカラダの底からぷくぷくと泡出ちはじめ、それが一気に噴火するマグマのように沸々と湧き上がり激流となって「記憶」として人の中に蘇ったとき、人は、ただどうしようもなく傷つき損なわれるのかもしれない、あるいは、何か不可思議な力を得るのかもしれない。ただ、どちらにしろ、自らの中に意識的にしろ無意識的にしろ、飼い慣らしてきた物語にめぐりあったとき、人は我がものとして、自らそれをしかと引き受けなければならないし、そうすることによって、何というか、道が拓けるのかもしれないということを考えさせられた。王国の騎士と魔術師たちが「夜の王」を捕獲する際、「夜の王」が「ミミズク」を護るためにかけた魔法は、「ミミズク」が慕い尊敬する「夜の王」に関わる記憶を奪うものだった。「夜の王」はあっさりと王国側に捕らえられる。一方、「ミミズク」は、記憶を失ったまま王国側に保護され、そこで「夜の王」と自らの哀しい過去を忘れたまま新たな生を送る。だが、「夜の王」のために「煉花」を採りに森に入ったときにであった王国の狩人との再会、その狩人の記憶の語らいによって、「ミミズク」は失われた記憶を取り戻す。その時の「夜の王」に対する怒りと哀しみは、「なぜ、どうして」という慟哭は、強大な感情のエネルギーとなって、演者を通して、わたしを圧倒した。そして私の中に、私がとうに忘れてしまっているが私にとって大切な物語があるのだとすれば、私は私の中に潜り込んででもそれを掴み取りたいし、それに向き合い、引き受けたいと思った。
そしてもうひとつ、エネルギーに関連して、「魔力」という名に仮託された、ひとの感情が放出するエネルギーの凄さについて。これも最近観た『怒り』を受けてこの頃よく考えていることなのだけれど、人は昔から、人のもつ禍々しい感情の不可思議さ、恐ろしさを、「魔力」という、よくわからないが畏敬と侮蔑の想いを込めた名称で、呼んできたのではないかと思った。魔王のような存在として恐れられる「夜の王」も、かつては人間の子(王子)だったことが明かされる。だが、不運にも生まれた頃に国が荒れていて、実の親からも国民からも愛想をつかれ、誰にも愛されなかった。その深い哀しみと怒りは自らの中にもう一人の自分の化身であろう悪魔を呼び寄せ、死ぬ代わりに生きることを選んだ少年(?)に、「魔力」を捧げた。「魔力」は強大で、国ひとつ平気で滅ぼしかねないという。わたしはここで、この「魔力」は、何も特別な人間にだけ付与されるものなどではなく、人一人ひとりが生きようとするその意志そのもの、エネルギーそのものだと思った。その必死に生きようとする意志があまりにも強大すぎた時、しかしその強い意志を生じさせる契機となった出来事に対して何ら解決策などなくどうしようも出来ないと感じる時、そのエネルギーは「魔力」と化し、悪魔的な力をその人間に与えるのかもしれないと思った。誰にも愛されなかった哀しみはいかほど強かったのだろう。そして「魔力」となったエネルギーによって、同族である人間からますます忌避されることのなった「夜の王」のやるせなさはいかほどのものだったのだろうと考えずにはいられなかった。ここで「夜の王」の対比として、「ミミズク」の存在が私の中で浮かび上がってくる。穢多・非人のような凄惨な生活をかつて強いられた「ミミズク」の、自らへの境遇と世間への憤りも大きなものだっただろう。しかし彼女はもしかしたらそのエネルギーを上手く自らに引き受けることが出来ずに、ある種半狂乱のような状態に陥ってしまった。だからこそ彼女は、このエネルギーをある意味でコントロールすることが出来た「夜の王」の独特の高貴さ、孤高さに惹かれ、慕い、この人に食べられたいと思ったのかもしれない。「夜の王」と「ミミズク」、同様の境遇にありながらも対照的な性格となったらしい経緯について思いを巡らすことによって、人が持つ感情が発するエネルギー、力の大きさを、「魔力」という比喩を通じて巧みに語りかけられたような気がした。
ストーリー内容自体について、小説が原作としてあることを鑑みてあまりとかく言うべきではないと思うのだけれど、一点だけ、わたしが個人的に気に入らなかった点がある。それは、最後「夜の王」が、王国の王子である「クローディア」の麻痺した手足を治した点である。これは最近、佐多稲子の小説「水」を読んだことが影響していると思うが、彼は彼の身体の悲哀を、小説の言葉を借りるなら「悲しみの重さ」を、自らに引き受けるべきだったとわたしは思う。治ったことで王が安心する。王子も王の期待に応えられる素地が整ってあとは引き継ぎを受けるだけ。確かにハッピーエンドかもしれない。だがこれで、「クローディア」にとって、この物語にとって、これで良かったのかと、わたしは疑問を呈せずにはいられない。「夜の王」も「ミミズク」も、各様のやり方で自らの哀しみを引き受けた。これに倣って「クローディア」も、自ら背負う身体の哀しみと愛の欠如という苦しみを引き受けることによって、物語として説得性があったのではないかと思う。(これはあくまで「この物語において」ということであり、世間一般についてこのような決断を強いる旨の発言ではない。)
以上が『ミミズクと夜の王』についての、私の主たる感想です。初見の観客に物語の「主張」を汲み取らせることが非常に難しかった作品だとは思いますが(私の感想はあくまで一人の観客がこの劇だけを観て感じた戯言に過ぎません)、同志社第三劇場の皆さんは、各々の素敵な個性を感じさせる演技を披露して愉しませて下さいました。何より、「人間の持つエネルギーは凄い」という、私がこの物語から主観的に感じたメッセージを演者一人ひとりが身体を張って証明してくださっていたように思いました。同志社第三劇場の皆さん、本当にお疲れ様でした。ありがとうございました。
ちなみに、個人的に見事なハマり役を演じていたように思うクローディア役の女性が、劇中の迫真の演技とは裏腹に、クロージングの告知等で告知内容をど忘れしたのかアタフタしていたのですが、そのギャップがなかなかグッド(?)でした。
そうそう、観劇後、新町から今出川駅まで戻る道、夜空をふと見上げると、月は高く昇り、ますますその輝きを増していました。
『怒り』を観て、考えたこと。
『怒り』を観てきました。
観る前に中途半端にお腹空いてたんでセブンイレブンでフライドチキン?を買って食べたんだけど、冒頭場面観てすぐにあ、やってしまったと思いました。強い吐き気はしばらく尾をひきました。
人のエネルギーは凄まじい。都会だろうと大自然の中だろうと、人と人が関わればすごい量のエネルギーが生じるんだなと思った。繁華街がいい例。繁華街には都会も田舎も関係ない。エネルギー、特に性的なエネルギーを発散させる場がない土地は、エネルギーが行き場を失い、思いがけないコトを引き起こすと書いていたのは、鷲田清一だったか。
人が人に疑われる、人が人を疑う、人が人に裏切られる、人が人を裏切る、人が人を信じる。この「事実」が当事者間で認知されたとき、人はその人自身の内側からものすごいエネルギーを爆発させる。泣く、叫ぶ、壊す、叫ぶ、壊す、泣く…。ともかく、凄い。こんな当たり前のことを、この映画は思い出させてくれました。
映画自体が放つエネルギーが凄すぎて、正直感想が纏まりません。軽い頭痛がする。ただ、今わたしが確実に言いたいことは一つです。
「俺は人の目をみると分かるんだよ。そいつが何考えてんのか全部。それで、あ、こいつちょっとかましたら俺のこと簡単に信じそうだなー、とか、わかんの。なんでかわかんないけど、わかっちゃうの。」という田中の言葉(細部は違うと思うけど大体はこんな感じのこと言ってたと思う)、これは、嘘だ、と思う。(ここで「思う」とかいう曖昧な表現じゃなくて「断言する」とかいうキレのいい言葉を使えたらいいのだろうけれど、そうしちゃうと私が自己撞着に陥ることになるので、それは出来ない。)つまり、人は人のことなんて、ホントのところは分からない。分からないから決断がいる、そのための勇気がいる。信じるか信じないか、愛するか愛さないか、裏切るべきか裏切らざるべきか…。だから人間関係はムツカシイ。けど、だからこそ逆に、お互いのこころを本当に理解しあうことが出来ないからこそ、寸前のところで皆正気を保っているのだと思う。(お互いがお互いホントに「心の中」で思っていることを口にだしたらどんな恐ろしいことが世の中に起こるだろうか。)そのことを私たちは受け入れる、つまり、人が人を理解する・受け入れる・信じる・愛するということの不完全性、不確実性を切に引き受けた上で、人は人との関係の、欲を言えば「よりよい関係」の構築に誠心誠意努力すべきだという考えに、わたしはたちたい。もちろん田中だって、この言葉を通じて、自分が自分に嘘ついてる、って、分かっていたのではないかと思う。嘘だって自分でも分かってるから、でも嘘をつかずにはいれれないから、エネルギーがうまく流れず滞留し、マグマ溜まりに溜まったマグマが瞬間的爆発的に噴き出すように、最後、あんな破滅的な破壊行為、自傷行為をしたんだとわたしは思う。
何度も言うけど、人を信じることも、愛することも、疑うことも、裏切ることも、ものすごく、ものすごくエネルギーがいる。ラストシーン近くなんて、もうみんな、泣く、叫ぶ、壊す、壊す、壊す、抱きしめる、泣くでもう、カオス状態。悲しみ、哀しみ、怒り、憤り、自己嫌悪。ああ、人の感情は、結局は脆いガラス同士が震え合うように、共鳴するものなんだな、その共鳴が「正か負か」どちらであるかによってその人間間におよぼす影響は全く異なるのだろうと、改めて認識させられた。(「瀬戸物と瀬戸物…」みたいなACジャパンのCM、ありましたね。)そんなもんだから、でもまあそんなだからこそ、人ってオモシロイし、いいよなあって思ったわたしは、おかしいのでしょうか。
わたしは、この映画を観て、映画のどこかで述べられていたように、「大切なものは増えるものではなく、減っていくもの」であるという悲しく切ない事実を真正面から引き受けた上で、わたしを想ってくれる人を、能うる限りの誠実さと思い遣りを以って、大切に守ってゆきたい、そしてそのための努力を日々の営みの中に貫いていきたい、と強く思いました。
とか書いていると、家に着きました。疲れました。おやすみなさい。ありがとう。
『君の名は。』を観て、感じたこと、考えたこと。
『君の名は。』を観る。
この映画を観て、帰りの電車の中でポツポツと考えていること。あくまでメモ書き。アルコールもしっかり摂取してしまったし、記憶も曖昧になりつつもあるので、内容の正確性は厳密に検証しない。
「糸ということ」、「100%の女の子ということ」、「デジタルなのにアナログということ」、「記憶ということ」。
「糸ということ」
「縦の糸はあなた 横の糸は私
逢うべき糸に 出逢えることを
人は 仕合わせと呼びます」
中島みゆき「糸」の一節。ひとはそれぞれ一本の糸であり、その糸と糸の交わりによってそれは布となり、誰かをあたため、かばい、そしていやすのかもしれない。この映画には、「糸」という言葉も、実際の「糸」も、よく描写されていたのが印象的だ。髪を結う糸、神事に使う糸、お守りとしての糸。そして「結う」という、「糸」を目的語とする動詞がそのまま「大地」を意味しているのだよという、おばあちゃんの言葉も印象的だった。地に足ついて、一人一人の糸を誰かの糸とからめながら、人を、そして人のたつ土地をおおい、人はしあわせを探すのだろうか。
「100%の女の子ということ」
あえて作者は言わないけれど、「4月のある晴れた日に100%の女の子に出会うこと」という小説がある。だいぶ雑に言うと、原宿かどこかで、主人公の男性が街中である女の子を見かけて「これこそ僕が求めていた100%の女の子だ。」と確信するお話し。うろ覚えだし、なんだかよくわからない話しだが、この映画をみて、そういう瞬間って、なきにしもあらずかもしれないと思った。主人公である二人は、お互いに顔も何も知らず、会ったことのない状態で、「もし入れ替わっている相手が目の前に現れたとしたら、絶対にわかる」と確信する。そんなことってありえないかもしれないけれど、「あれ、どこかでお会いしましたっけ?」という個人的によくあるこの感覚、もしかしたら宿世の深い縁のある人なのかもしれないと思って接しようと思ったりもした。
「デジタルなのにアナログということ」
二人の主人公、それぞれ東京の大都会と岐阜のど田舎というてんでアンバランス?なところに住んでいるが、どちらもLINEはやっているし、一般的には物理的な距離を気にせずコミュニケーションをとることは可能だ。お互いの連絡先さえ知っていれば。この二人はお互い連絡をとるすべを持たない。ひととひととのコミュニケーションが急速にデジタル化する中、彼らがとる行動は、実際に足を動かして会いに行くということ。デジタルが当たり前な生活にまみれるなかで、この二人の行動がとても原始的で、神話的でむしろ愛おしく思えたのは私だけだろうか。
「記憶ということ」
僕の頭の処理速度が遅いだけかもしれないけれど、作品中、現実と夢とが入り混じり、正直何が何だか、現実と夢との違いがわからなくなってくる。推理小説みたいに理を突き詰めて辻褄をあわせようとすると破綻しかねない危うさがある。それはもしかしたら、人の記憶の曖昧さ、儚さをそのまんまに描写し伝えようとした作者の意図なのかもしれないとも思った。例えば「どこかでお会いしましたっけ?」という漠然とした感覚。本当にあったのかもしれないし、ただの思い違いかもしれない。だけど、「どうしてこの人のこと知っているような気がするのだろう?」そう考えるだけで、ドキドキワクワクしてしまわないだろうか。実際に会ったことのある人、それも毎日会っていた友人のことさえも、ながらく会わないと忘れてしまうような人間が、会ったこともないかもしれないのに会ったことがあるって確信するって、これはもう、「100%の女の子」かどうかは分からないけれど、なにかあるかもしれない。そんな芳醇な物語を予感させる出会いを、今後大切にしていきたいと思った。
言葉にしてみるとしょうもない感想だし、精査できていない点もあるからひどくお粗末なものだけど、映画をみている間は、なんというか、鳥肌が止まらないのと頭がずっとぐわんぐわんするので、観賞後はとっても疲れました。ともあれ、「人が人のことを想う」というその原始的な行為の風景のようなものがいきいきと描写されていて、わたしは見事に糸の織りなす布に覆われたかのように、ほっこりとした気持ちになっていました。