『この世界の片隅に』を観て、想ったこと、感じたこと。

この世界の片隅に』を観てきました。

 

「日々を生きるということを突きつけられた」気がします。

すごく抽象的であるうえに、自己撞着したような感想ですが、私が感じたことはこの言葉に収斂されると思います。

 

「突きつけられた」という言葉を使っていますが、押し付けがましいものではありません。描かれているのは、戦争前から戦争直後を生きた、ごく当たり前の人々の生き方の一つです。そこには、「ここ(の場面)(の描写)に特に注目してほしい」というようなメッセージも感じられません。「ある時代、ある場所で、このようにして生きる人々がいました。」本当に、これだけだと思うんです。

 

あたたかい映画だった。そして、背筋が伸びる思いがした。

人は人と支え合って生きていた。衣・食・住、まかなえるものはすべてじぶんたちでまかなっていた。人は木と違う。「人木石に非ず」というのは、木石よりも人を優位とした思想だ。だがどうだろう、木はひとりでちゃんと立っていられるじゃないか。石は他の石を求めることはないじゃないか。人はひとりで立つことすらできない。支え合って、頼りあって、求めあって生きている。それがそもそも「人」という字のおこりだろう。そして、ひと昔前、人は、じぶんで生きるために必要なことは、おかねをバンッとおいて解決するのではなくて、まず自分たちの手で、できることをしようとしていたのだ。着るものは、自らの手で仕立てるところからはじめる。その技は、親から子、あるいは祖父母から孫へと、手から手に受け継がれていく。いま私たちは、どこの誰が作ったのかわからない、身体に絶妙に合わない既成服をきている。一枚の布から、じぶんの身体に合う「もんぺ」をつくること、これができる人が今どれだけいるというのだろう。住まいのことも、そうだ。みんな火を焚くところから、天候を気にしながら洗濯物を洗い、干すことからはじめる。ボタンひとつでご飯ができることもないし、お風呂も沸かすことができない。虫だって入ってくるから、砂糖は高いところに置く、蚊帳を吊るす。防空壕も、じぶんたちで作り上げる。食に関しては、最も暗鬱たる気分になった。いま当たり前にお金と交換して入手できることができる食べものが手に入れられなくなったとしたら、私は生きる術を知らない。食べられる草をどうやって判断し、見つけ、調理するというのだろう。それら知恵を教えてくれるのは、人だ、その人の口だ、手だ。家族もそう、ご近所の人もそう。みんなでみんなにお互いさまだと教え合っていた。そうやって、生きる術をわがものとしていた。皆、限られた食ざいを一生懸命工夫して、これはまずい、これはうまいをいいあって、試行錯誤しながら学んできた。

 

そうだ、「突きつけられた」という言葉を、もう少し率直に言い表すとしたら、「ただただ羨ましかった」だろうか。その羨ましさは、映画で描かれていた人々の<生きるという手仕事>の引き受けかたに、魅せられていたからかもしれない。

 

太平洋戦争の不穏な足跡が日常にも侵攻してきた時でも、人々の心の中に権力の支配は決して及ばなかった。戦争が終わった時、人々は自らの感情に素直に、言いようのない怒りを露わにした。わたしは詩人・長田弘『失われた時代』の言葉を思い出す。

 

 …1930年代の日本をもっともよく生きた詩人のひとりだった伊東静雄は、敗戦後、復員してすぐ軍服のままたずねてきた若い作家が、戦争中右翼的なことを強く主張し指導者面をしていた連中が早くもアメリカ仕込みの民主主義の指導者面をしていることに対する不快感を述べると、人間はそれでいいのですよ、共産主義がさかんな時は共産主義化し、右翼がさかんな時は右翼化し、民主主義が栄えてくれば民主主義になるのが本当の庶民というもので、それだからいいのですと、その軍服姿を戦争中のいやな軍部の亡霊をみたように不快がって、若い作家をおどろかせた、といわれる。

 その挿話はわたしにはとても印象的な記憶としてのこっているが、しかしこの伊東静雄のような「庶民」のとらえかたは、わたしにはまさに「本当の庶民」像の倒錯にすぎないようにおもわれた。わたしのかんがえは、ちがう。「本当の庶民」ということをいうならば、共産主義の時代がこようと右翼がさかんな時世がこようと、人びとはけっして「共産主義化」も「右翼化」も「民主主義化」もせず、みずからの人生を、いま、ここに<生きるという手仕事>として果たしてゆくほかないだろうからだ。

 <生きるという手仕事>を果たすという生きかたは、だから、そのときそのときの支配の言葉をひさいで生きのびてゆく生きかたを、みずから阻んで生きるわたしの生きかたなのだ。

 […]その行為は意識的にせよ無意識にせよ、社会の支配をささえるようにみえながら同時に社会の支配をみかえす無名の行為のひとつとして、社会の支配のついにおよばない自由を生きる本質をふかくそなえていたはずだ。…

 

時世が変わればそれに人々が阿諛追従するなど、それこそ「本当に庶民」像の倒錯だと喝破するのが快い。人はそんなにやすやすと変わりはしない。しっかと地に足つけて、その身相応に「手仕事」を引き受けわがものとするのが人というものだ。そうして、ただただ「みんな笑顔で暮らす」道を模索し続けるのだ。

 

映画の中で、すずが軍艦を写生しているところを憲兵達が咎める場面がある。憲兵はすずの家のもの全員に、これがいかに恥知らずな行為であるかを大真面目に説いて叱責し、それを聞いてすずの一家は顔を真っ赤にして震えて聞いている。その場面だけを見ると、あまり知識のないわたしは、憲兵に怯えているのかと思っていたのだが、実際はその時、みんな必死に笑うのををこらえていたのだった。「軍艦を遠くから写生するだけで一体何の機密が漏洩できるって言うんだい」と、(すず以外)みんな抱腹絶倒する。また、別の場面、すずがお義父さんのお見舞いに病院に伺った時、寝台の一角に備えられたLPレコード盤から流れる「敵性音楽」のジャズに患者達がうっとりと聴き入っていた…。

 

そうなのだ、「庶民」の精神は、そうやすやすと「権力」には支配されない。

その精神は、「社会の支配のついにおよばない自由を生きる本質をふかくそなえている」というのは、

まさにこの映画の中で主だって描かれるすずとその周辺の人々の生きざまにふさわしく、贈るべき言葉であって、

だからこそわたしは、わたし自身この「自由を生きる本質をふかくそなえ」た生きかたに憧れる者として、

当たり前の日常を描かれることが、わたしにとっては激しい嫉妬を生じさせるような、

あざとい「みせつけ」に感じられ、悶えたのだと理屈をつけようと思う。

 

 …生きることをじぶんにとっての<生きるという手仕事>として引き受けること[…]

 それがどんなにいかなる政治体制のもとに圧されて果たされる生であるようにみえ、また「血も流さなきゃ、祖国を救いもしない」生にみえようと、ひとがみずからの生を<生きるという手仕事>として引き受け、果たしてゆくかぎり、そこにはけっして支配の論理によって組織され、正統化され、補完されえないわたしたちの<生きるという手仕事>の自由の根拠がある、という考えにわたしは立ちたい。<生きるという手仕事>は、それがどんなにひっそりと実現されるものであろうと、権力の支配のしたにじっとかがむようにみえ、しかしどんな瞬間にもどこまでも権力の支配の上をゆこうとするのだ。

 

今までわたしが学んだ歴史とは、庶民の目に映った日常を奪い去ったまがいものの集まりなのかと疑わざると得なかった。戦時中のいかなる標語(例えば「欲しがりません、勝つまでは。」など)も、権力側のイメージ操作の喧伝にすぎなかったのか。ああしろこうしろと権力側に言われても、その権力側が何をしているのか、戦争に勝っているのか負けているのか全くわからない。だけど、そのわからない中で、「いま、ここ」を生き抜くために、自らの<生きるという手仕事>を引き受ける姿勢というものは、私にはとても格好良く映った。

 

玉音放送で戦争が終わったことが告げられた時、私たちが歴史の教科書等で目にするのは、地面に突っ伏して、天皇陛下に土下座をしていると思わせられるような姿ばかりだ。でも、決してそうではない。「本当の庶民」は、天皇陛下という、善悪つかぬ抽象的な象徴に何の感情も持ちあわせてはいない。映画の中で、玉音放送が終わった時、すずの家族はみな平然とした風に、「さ、戻りましょう。」といつもの日常に戻っていった。だがそこに、感情がなかったわけではない。「土下座」は、確かにあった。だがその「土下座」は、悲しみは、怒りは、爆弾で失った我が子や、「みんなで笑顔で暮らす」生活を理由のない暴力で奪い去った戦争に対してだった。

 

私は、すず達に激励の言葉を贈りたいと思う。それはまず、あなた達の生き方が私に勇気とも嫉妬とも言えない妙な力を与えてくれたことへの感謝の言葉だ。そして、あなたたちの生き方は、権力の支配に従うようにみえながらそれを超越した自由なこころを備えているのだという畏敬の言葉だ。あなた達は、とても立派でした。わたしは、自ら信ずるところに従い、少しでもあなたたちに見習い、わたしの<生きるという手仕事>を全うしていきたいと思います。

『永い言い訳』を観て、感じたこと、考えたこと。

「悲しみをきちんと引き受けるということ」について考えさせられる物語でした。これはフロイトが「対象喪失」と「悲哀の仕事」という言葉を使って説明してくれているみたいですね(原典にあたっていない)。例えば、神戸児童連続殺傷事件の犯人である「少年A」なんかは、この「対象喪失」からの「悲哀の仕事」を「適切に」全うすることが出来ずに成長してしまった例として、(そしてそれによって悲惨な事件を起こしてしまったという因果関係で)各種報告書(高山文彦『「少年A 」14歳の肖像』新潮社、2001など)には記載されてますね。

 

「悲しみを引き受ける」ということは、小説家・村上春樹もよく彼の小説で表現していることですよね。彼の最新短編集『女のいない男たち』の中で大好きな、(いや彼の短編小説全体でも大好きな)彼の短編小説「木野」は、妻を失った男が、その悲しみを適切に引き受けなかったことによって彼自身が損なわれ苦しんでゆく底無しに悲しい物語だし、また、重きが「引き受ける(打ちのめされる)」ところから「立ち直る」に移る過程でいうと、同じく私の大好きな中長編小説『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は、友による裏切りによって毎日死ぬことばかり考えていた青年が自らを回復させようと「巡礼の旅」に赴く物語だよね。

 

(私の映画の感想ではいっつも村上春樹の作品が顔をひょっこりみせているし、今回も村上春樹ステマかよって思われるような、本作に全く触れないイントロだったけど、それくらいテーマの共鳴度が私にとって大きかったということ。)

 

私はこの映画を、というかこの映画の衣笠幸男を観るのが辛かった。それはまるで自分をみているような、自分の声をカセットテープを通じて聞いているような、不快な感覚だった。私は彼が嫌いだ。ほとんど憎んでさえいる。それは取りも直さず、自覚している自らの一番嫌な本性を、人前で勝手にひけらかされているような侮辱的な感覚を伴ったからだった。

 

衣笠幸男は作家だ。弔辞や、失った妻についての様々な問いかけにこたえる作家の言葉が、あれほど空虚に感じるのだから滑稽だった。そもそも何も思っていない、何も感じていない、本当にからっぽなのだから、何も出てきやしないのに。それをそれっぽく繕って言葉を紡ぎ出しても、空回りするばかりだ。インタビューで語る言葉、失った妻の同級生の夫、陽一さんを励ますような言葉、陽一さんの息子・健心くんへのアドバイスのような言葉、それら全てが、彼の「醜い」部分を知っている我々観客には空虚に聞こえるし、綺麗事ばかりを作家的言葉を駆使して述べる彼に「じゃ、お前は、お前の実際は、どうなんだよ」と問わずにはいられない。

 

必死に「演技」しようと努める彼も、ドキュメンタリーの撮影風景での彼より様子をみていれば分かるように、自らが「演技」することを強いられることは好まないし、自分は人を愛さなくても、人には愛されていなければならない。余りにも身勝手で空虚な生き方に、愛人すらも愛想を尽かす。「あなたは、いま私を抱いているんじゃない。」という言葉は、坂口安吾の短編小説「私は海をだきしめていたい」を思い出させる。ここで「海」は、不感の象徴である。

 

だかしかし、そんなことは、つまり彼の「醜い」部分は、彼が彼自身で一番よく分かっている。だからこそ、彼は語気を荒げて、その「醜い」自分を、「それっぽい言葉」を駆使しながら、必死にかばおうとする。親類を失い悲しみに暮れていた自分を救ってくれたという、ドキュメンタリーでの「演技」で語られた、衣笠の上っ面で作家的な有難い言葉に、親しみと共感を込めて衣笠に近寄づいてきたこども科学館の学芸員・山田さんに向かって、怯えに似たような表情を見せながら、幸男は「口ではどうとでも言えますよね。」と嘲笑さえ浮かべて突き放す。しかし、「幻滅させました?ごめんなさいね。」とおもてヅラは飄々として突き放した彼も、どこかで自分のこの「醜い」部分を晒し出したい衝動に駆られながらも、隠し通すしかない自分に嫌気が差していたのではなかったか。宴会で泥酔した彼の言葉の節々からは、「誰も「本当の俺」を分かってくれない」ということに、ある種恍惚にも似た自己満足しながらも、自己嫌悪に陥り、苛立ち、寂しがってさえいるように感じたのは私だけだろうか。

 

それに対して、陽一の対象喪失への反応は「まっすぐ」だった。失った妻を直向きに愛していた、やましいこともしていない陽一が語る悲哀は、幸男のそれとははっきりとしたコントラストを生み出していたし、それが幸男にとっては何よりも辛かったことではないだろうか。つまり、自らの家に頻繁に出入りしながらも幸男の葛藤について何一つ知らない陽一と、その陽一が遠慮なく露わにする悲哀の感情を作家的言葉で慰める心労を迫られる幸男とが一見良好にみえる交流を続けるよって、幸男のコンプレックスが悪化するのは明らかだし、この「わだかまり」がいつか爆発しないわけがない。

 

けれど重要なことは、(幸男が感じているのが「コンプレックス」だなんて今言ったばかりだけど、)物語全体を通して、「どちらが正しいのか」なんていうことを考えさせようとしているのではないようだということだろう。あくまで「どっちの生き方だってあるんだよ」という、一つの提示に留まっているに過ぎない。物語世界全体を貫くこの軸は、子供を持つことについての是非についての作中の議論をきけば明らかだろう。どっちの生き方だってある。けど、どっちの生き方だって苦労はあるんだよ、ということ。(「苦労」や「不幸」については語られても、「幸福」については「必ずしも不幸ではない」という、「不幸」否定形で語られるに留まり、直接積極的にはには語られていなかったように思う。)

 

さて、物語が進むにつれて、幸男(と彼の家庭)と幸男の間にある根本的な生き方の差異によって生じる「しこり」のようなものが大きくなってゆく。そしてその「しこり」の明滅と共に、物語は大きく波打つ。特に幸男が陽一に自らの「醜い」部分を晒け出してから、彼の言葉に微妙な変化がみえる。言葉が虚から実へと向かうような感覚。特に、父を迎えにいく電車内での健心と幸男との対話で。幸男が、まるで健心を鏡としているかのように、健心に語りかける自らの言葉を、一言一言噛みしめるカンジが伝わってきて、なんとなくだけど、「彼はこれから変わるんだな」と感じた。陽一も陽一で、「醜い」幸男の生き方を決してあからさまに否定はしなかった。新作発表記念のパーティで、にっこりと彼に微笑みかけていたのだから。

 

内面の変化と、外面の変化はシンクロするもの。まずは髪を切るというところから。妻の葬式で「これから私の髪は誰が切ってくれるのでしょうか。」と幸男はいう。それから幸男は一年、髪を切らなかった。妻がオーナーを務めていた、妻のことを慕っていた美容院のスタッフからは、理屈をつけて妻のお見送りをさせなかったからだろうか、幸男は嫌われている。まずはこの美容院に足を運ぶことから、彼は一歩を踏み出したのかもしれない。そして、部屋の片付け。妻の死後以降部屋は荒れ放題だったが、きちんと片付けをする。妻の遺品も整理する。気持ちの整理とは、必ず身の回りの物理的な整理具合と呼応するものである。このような「巡礼」を経て、何かが変わるという予感はあるが、それが何かは分からないままに、物語は幕をとじた。

 

私は、人間は「醜い」部分があってもいいと思うし、言っていることと行っていることが矛盾していたって構わないと思っている。私は、むしろそういう倒錯した人間のほうが惹かれるし、弱いくせに強がった口を利く人なんか大好きなくらいだ。(そして私は、傲慢な言い方かもしれないけど、そういう「人前でインモラル発言を連発して悪態吐く、弱くて繊細なくせに強気な人」と一対一でじっくり話すと、必ずと言っていいほど「お前といると落ち着く」と言われたし、僕もいちいち心臓に悪いけど嫌いじゃないと思ってきた。)だって。「普通」で「綺麗」な人なんて、正直つまらない。

 

私は私のことをひどい人間だと思うことがある。恥ずかしくなるくらい、冷酷・残酷だと思うことがある。でもそのくせ、涙脆いところだってある。人の優しさに触れてキューっと胸が締め付けられる、人知れず微笑むことだってある。一方で、人にやさしくされると冷たくあしらいたくなるし(例えば今私はホスピタリティの高さで定評のあるスタバにいるけれど、愛想よくされればされるほど冷たく対応したい子供染みた衝動に襲われることが多い)、人にやさしくして冷たくあしらわれると、その人をとことん憎む人間でもある。そんな私が、私、案外好きだ。なぜなら、私はそれを上手くコントロールしていると思うからだ。でもちゃんとコントロールするためには、とんでもない量のエネルギーがいる。自らの真っ黒い部分と真っ白い部分とそれ以外の部分をうまく統率して自分が自分のせいで分裂してしまわないように、ものすごいエネルギーがいるんです。そしてそのエネルギーの補給のために、私は物語の世界に飛び込むのだと今日、なぜか、本作を観て、感想をぽちぽちとまとめながら、確信出来たような気がします。物語は私たちに、どのようにして生きるかという一例を示してくれるからです。それが「あり得そう」とか「あり得ない」とか、そんなのどうだっていい。「こんな生き方もあるんだ。」と教えてくれることで、そして未知の生き方を求めて飽きもせずページを繰ることで、このろくでもない自分とろくでもない世界を強かに生きようと、私はこれから何度も、何度だって思うのだと思う。

 

最果タヒさんのエッセイ集『きみの言い訳は最高の芸術』の中でタヒさんは言う。「生きることは、言い訳をすること。」なんて端的で、清々しい定義の仕方なのだろう。私たちは自らの「生きる」という行為に対して、生まれてから死ぬまでずっと続く「永い言い訳」をするのだ。そして私は、私なら、その「言い訳」が、たとえそれがどんなに「怯懦で迂遠」にみえる生き方であっても、自分でもとんでもなく醜いと思う生き方であっても、その「言い訳」を「素敵ですね」だとか「最高の芸術」だとか言ってくれる、そのただ一人でもいいからその一人と出会うために、そしてその出会いを大切にするためだけに懸命に生きるような、そんな人生を積極的に歩んでいきたいという思いを新たにしました。

 

以上、京都Porta店のスターバックスより、iPhoneでぽちぽちと打っておりましたが、そろそろ疲れたので帰ります。おやすみなさい。Thanks for Thanksgiving Day!

同志社第三劇場による『ミミズクと夜の王』を観て、感じたこと。

同志社第三劇場さんによる『ミミズクと夜の王』(「ねぇ、あたしのこと、たべてくれませんか?」死にたがりやのミミズクと、人間嫌いの夜の王。すべての始まりは、美しい月夜だった。)を観てきました。

場所を確認もせずクローバーホールだろうとなぜか確信してズカズカと歩みを進めていったらもぬけの殻で、確認したら学生会館別館だとわかり、開演間際ということもあって、猛ダッシュしました(開演時間に間に合わなかったら入場できないという点は確認していた)。人に観てきて欲しいと頼まれたものだったので、新町キャンパスに着いたものの会場に行ったことがなくてどこやねんっとなった私は半ばヤケになってほくそ笑みながら、万が一観れなかった時の言い訳をどうしようか考えたりしていました。結果、とりあえず間に合ってよかった。そういえば、今出川駅から地上に出た時、今出川キャンパス越しに見えた月がとても綺麗でした。

さて、気を取り直して内容に関しての感想を書いてみたいと思います。※引用のセリフや具体的なストーリー内容については、筆者の記憶を元にしているため、正確ではない場合があります。

わたしがこの演劇を観て受けた印象を一言にまとめると、人のこころの不可思議さとそのエネルギーを、豊かなアレゴリーを含む物語で表現した作品だと感じた、ということになるでしょうか。

物語の舞台は中世ヨーロッパ都市を彷彿とさせる(行ったことないけど!世界史の資料集で見ただけだけど!)。都市の中で、人々は資本主義の原理で、市場(いちば)の中で生計を立て、暮らしている。一方で、人々の暮らしを一歩隔てたところには深い森があり、その中には魔物がいて、そのトップに強力な魔力を有する「夜の王」がいて、人々は恐れ、嫌っている。物語は、その「夜の王」に、「ミミズク」と自らを名付けた素性のしれない少女が、わたしを食べてくださいという旨の突拍子もない懇願をするところからはじまる。

この劇を観て、わたしにとって印象的だったことをもう少し具体的に表現するとすれば、ひとつは、ひとが自らの中に育む意識的無意識的な「記憶」を引き受けることの難しさと大切さ、そしてもうひとつは、「魔力」という言葉に委ねられた、ひとの感情が有するエネルギーがいかに大きいかということだと思います。

「記憶」ということについては、昨今観た『君の名は。』を思い出させずにはいられない。どこか自分という存在の奥深いところに、忘れ去られた物語が横たわるように沈んでいるという確信。その物語が、ある瞬間、ある刺激を契機に、ふとカラダの底からぷくぷくと泡出ちはじめ、それが一気に噴火するマグマのように沸々と湧き上がり激流となって「記憶」として人の中に蘇ったとき、人は、ただどうしようもなく傷つき損なわれるのかもしれない、あるいは、何か不可思議な力を得るのかもしれない。ただ、どちらにしろ、自らの中に意識的にしろ無意識的にしろ、飼い慣らしてきた物語にめぐりあったとき、人は我がものとして、自らそれをしかと引き受けなければならないし、そうすることによって、何というか、道が拓けるのかもしれないということを考えさせられた。王国の騎士と魔術師たちが「夜の王」を捕獲する際、「夜の王」が「ミミズク」を護るためにかけた魔法は、「ミミズク」が慕い尊敬する「夜の王」に関わる記憶を奪うものだった。「夜の王」はあっさりと王国側に捕らえられる。一方、「ミミズク」は、記憶を失ったまま王国側に保護され、そこで「夜の王」と自らの哀しい過去を忘れたまま新たな生を送る。だが、「夜の王」のために「煉花」を採りに森に入ったときにであった王国の狩人との再会、その狩人の記憶の語らいによって、「ミミズク」は失われた記憶を取り戻す。その時の「夜の王」に対する怒りと哀しみは、「なぜ、どうして」という慟哭は、強大な感情のエネルギーとなって、演者を通して、わたしを圧倒した。そして私の中に、私がとうに忘れてしまっているが私にとって大切な物語があるのだとすれば、私は私の中に潜り込んででもそれを掴み取りたいし、それに向き合い、引き受けたいと思った。

そしてもうひとつ、エネルギーに関連して、「魔力」という名に仮託された、ひとの感情が放出するエネルギーの凄さについて。これも最近観た『怒り』を受けてこの頃よく考えていることなのだけれど、人は昔から、人のもつ禍々しい感情の不可思議さ、恐ろしさを、「魔力」という、よくわからないが畏敬と侮蔑の想いを込めた名称で、呼んできたのではないかと思った。魔王のような存在として恐れられる「夜の王」も、かつては人間の子(王子)だったことが明かされる。だが、不運にも生まれた頃に国が荒れていて、実の親からも国民からも愛想をつかれ、誰にも愛されなかった。その深い哀しみと怒りは自らの中にもう一人の自分の化身であろう悪魔を呼び寄せ、死ぬ代わりに生きることを選んだ少年(?)に、「魔力」を捧げた。「魔力」は強大で、国ひとつ平気で滅ぼしかねないという。わたしはここで、この「魔力」は、何も特別な人間にだけ付与されるものなどではなく、人一人ひとりが生きようとするその意志そのもの、エネルギーそのものだと思った。その必死に生きようとする意志があまりにも強大すぎた時、しかしその強い意志を生じさせる契機となった出来事に対して何ら解決策などなくどうしようも出来ないと感じる時、そのエネルギーは「魔力」と化し、悪魔的な力をその人間に与えるのかもしれないと思った。誰にも愛されなかった哀しみはいかほど強かったのだろう。そして「魔力」となったエネルギーによって、同族である人間からますます忌避されることのなった「夜の王」のやるせなさはいかほどのものだったのだろうと考えずにはいられなかった。ここで「夜の王」の対比として、「ミミズク」の存在が私の中で浮かび上がってくる。穢多・非人のような凄惨な生活をかつて強いられた「ミミズク」の、自らへの境遇と世間への憤りも大きなものだっただろう。しかし彼女はもしかしたらそのエネルギーを上手く自らに引き受けることが出来ずに、ある種半狂乱のような状態に陥ってしまった。だからこそ彼女は、このエネルギーをある意味でコントロールすることが出来た「夜の王」の独特の高貴さ、孤高さに惹かれ、慕い、この人に食べられたいと思ったのかもしれない。「夜の王」と「ミミズク」、同様の境遇にありながらも対照的な性格となったらしい経緯について思いを巡らすことによって、人が持つ感情が発するエネルギー、力の大きさを、「魔力」という比喩を通じて巧みに語りかけられたような気がした。

ストーリー内容自体について、小説が原作としてあることを鑑みてあまりとかく言うべきではないと思うのだけれど、一点だけ、わたしが個人的に気に入らなかった点がある。それは、最後「夜の王」が、王国の王子である「クローディア」の麻痺した手足を治した点である。これは最近、佐多稲子の小説「水」を読んだことが影響していると思うが、彼は彼の身体の悲哀を、小説の言葉を借りるなら「悲しみの重さ」を、自らに引き受けるべきだったとわたしは思う。治ったことで王が安心する。王子も王の期待に応えられる素地が整ってあとは引き継ぎを受けるだけ。確かにハッピーエンドかもしれない。だがこれで、「クローディア」にとって、この物語にとって、これで良かったのかと、わたしは疑問を呈せずにはいられない。「夜の王」も「ミミズク」も、各様のやり方で自らの哀しみを引き受けた。これに倣って「クローディア」も、自ら背負う身体の哀しみと愛の欠如という苦しみを引き受けることによって、物語として説得性があったのではないかと思う。(これはあくまで「この物語において」ということであり、世間一般についてこのような決断を強いる旨の発言ではない。)

以上が『ミミズクと夜の王』についての、私の主たる感想です。初見の観客に物語の「主張」を汲み取らせることが非常に難しかった作品だとは思いますが(私の感想はあくまで一人の観客がこの劇だけを観て感じた戯言に過ぎません)、同志社第三劇場の皆さんは、各々の素敵な個性を感じさせる演技を披露して愉しませて下さいました。何より、「人間の持つエネルギーは凄い」という、私がこの物語から主観的に感じたメッセージを演者一人ひとりが身体を張って証明してくださっていたように思いました。同志社第三劇場の皆さん、本当にお疲れ様でした。ありがとうございました。

ちなみに、個人的に見事なハマり役を演じていたように思うクローディア役の女性が、劇中の迫真の演技とは裏腹に、クロージングの告知等で告知内容をど忘れしたのかアタフタしていたのですが、そのギャップがなかなかグッド(?)でした。

そうそう、観劇後、新町から今出川駅まで戻る道、夜空をふと見上げると、月は高く昇り、ますますその輝きを増していました。

『怒り』を観て、考えたこと。

『怒り』を観てきました。

観る前に中途半端にお腹空いてたんでセブンイレブンでフライドチキン?を買って食べたんだけど、冒頭場面観てすぐにあ、やってしまったと思いました。強い吐き気はしばらく尾をひきました。

人のエネルギーは凄まじい。都会だろうと大自然の中だろうと、人と人が関わればすごい量のエネルギーが生じるんだなと思った。繁華街がいい例。繁華街には都会も田舎も関係ない。エネルギー、特に性的なエネルギーを発散させる場がない土地は、エネルギーが行き場を失い、思いがけないコトを引き起こすと書いていたのは、鷲田清一だったか。 

人が人に疑われる、人が人を疑う、人が人に裏切られる、人が人を裏切る、人が人を信じる。この「事実」が当事者間で認知されたとき、人はその人自身の内側からものすごいエネルギーを爆発させる。泣く、叫ぶ、壊す、叫ぶ、壊す、泣く…。ともかく、凄い。こんな当たり前のことを、この映画は思い出させてくれました。

映画自体が放つエネルギーが凄すぎて、正直感想が纏まりません。軽い頭痛がする。ただ、今わたしが確実に言いたいことは一つです。

「俺は人の目をみると分かるんだよ。そいつが何考えてんのか全部。それで、あ、こいつちょっとかましたら俺のこと簡単に信じそうだなー、とか、わかんの。なんでかわかんないけど、わかっちゃうの。」という田中の言葉(細部は違うと思うけど大体はこんな感じのこと言ってたと思う)、これは、嘘だ、と思う。(ここで「思う」とかいう曖昧な表現じゃなくて「断言する」とかいうキレのいい言葉を使えたらいいのだろうけれど、そうしちゃうと私が自己撞着に陥ることになるので、それは出来ない。)つまり、人は人のことなんて、ホントのところは分からない。分からないから決断がいる、そのための勇気がいる。信じるか信じないか、愛するか愛さないか、裏切るべきか裏切らざるべきか…。だから人間関係はムツカシイ。けど、だからこそ逆に、お互いのこころを本当に理解しあうことが出来ないからこそ、寸前のところで皆正気を保っているのだと思う。(お互いがお互いホントに「心の中」で思っていることを口にだしたらどんな恐ろしいことが世の中に起こるだろうか。)そのことを私たちは受け入れる、つまり、人が人を理解する・受け入れる・信じる・愛するということの不完全性、不確実性を切に引き受けた上で、人は人との関係の、欲を言えば「よりよい関係」の構築に誠心誠意努力すべきだという考えに、わたしはたちたい。もちろん田中だって、この言葉を通じて、自分が自分に嘘ついてる、って、分かっていたのではないかと思う。嘘だって自分でも分かってるから、でも嘘をつかずにはいれれないから、エネルギーがうまく流れず滞留し、マグマ溜まりに溜まったマグマが瞬間的爆発的に噴き出すように、最後、あんな破滅的な破壊行為、自傷行為をしたんだとわたしは思う。

何度も言うけど、人を信じることも、愛することも、疑うことも、裏切ることも、ものすごく、ものすごくエネルギーがいる。ラストシーン近くなんて、もうみんな、泣く、叫ぶ、壊す、壊す、壊す、抱きしめる、泣くでもう、カオス状態。悲しみ、哀しみ、怒り、憤り、自己嫌悪。ああ、人の感情は、結局は脆いガラス同士が震え合うように、共鳴するものなんだな、その共鳴が「正か負か」どちらであるかによってその人間間におよぼす影響は全く異なるのだろうと、改めて認識させられた。(「瀬戸物と瀬戸物…」みたいなACジャパンのCM、ありましたね。)そんなもんだから、でもまあそんなだからこそ、人ってオモシロイし、いいよなあって思ったわたしは、おかしいのでしょうか。

わたしは、この映画を観て、映画のどこかで述べられていたように、「大切なものは増えるものではなく、減っていくもの」であるという悲しく切ない事実を真正面から引き受けた上で、わたしを想ってくれる人を、能うる限りの誠実さと思い遣りを以って、大切に守ってゆきたい、そしてそのための努力を日々の営みの中に貫いていきたい、と強く思いました。

とか書いていると、家に着きました。疲れました。おやすみなさい。ありがとう。

『君の名は。』を観て、感じたこと、考えたこと。

 

君の名は。』を観る。

この映画を観て、帰りの電車の中でポツポツと考えていること。あくまでメモ書き。アルコールもしっかり摂取してしまったし、記憶も曖昧になりつつもあるので、内容の正確性は厳密に検証しない。
「糸ということ」、「100%の女の子ということ」、「デジタルなのにアナログということ」、「記憶ということ」。

「糸ということ」

「縦の糸はあなた 横の糸は私
逢うべき糸に 出逢えることを
人は 仕合わせと呼びます」
中島みゆき「糸」の一節。ひとはそれぞれ一本の糸であり、その糸と糸の交わりによってそれは布となり、誰かをあたため、かばい、そしていやすのかもしれない。この映画には、「糸」という言葉も、実際の「糸」も、よく描写されていたのが印象的だ。髪を結う糸、神事に使う糸、お守りとしての糸。そして「結う」という、「糸」を目的語とする動詞がそのまま「大地」を意味しているのだよという、おばあちゃんの言葉も印象的だった。地に足ついて、一人一人の糸を誰かの糸とからめながら、人を、そして人のたつ土地をおおい、人はしあわせを探すのだろうか。

100%の女の子ということ」
あえて作者は言わないけれど、「4月のある晴れた日に100%の女の子に出会うこと」という小説がある。だいぶ雑に言うと、原宿かどこかで、主人公の男性が街中である女の子を見かけて「これこそ僕が求めていた100%の女の子だ。」と確信するお話し。うろ覚えだし、なんだかよくわからない話しだが、この映画をみて、そういう瞬間って、なきにしもあらずかもしれないと思った。主人公である二人は、お互いに顔も何も知らず、会ったことのない状態で、「もし入れ替わっている相手が目の前に現れたとしたら、絶対にわかる」と確信する。そんなことってありえないかもしれないけれど、「あれ、どこかでお会いしましたっけ?」という個人的によくあるこの感覚、もしかしたら宿世の深い縁のある人なのかもしれないと思って接しようと思ったりもした。

「デジタルなのにアナログということ」
二人の主人公、それぞれ東京の大都会と岐阜のど田舎というてんでアンバランス?なところに住んでいるが、どちらもLINEはやっているし、一般的には物理的な距離を気にせずコミュニケーションをとることは可能だ。お互いの連絡先さえ知っていれば。この二人はお互い連絡をとるすべを持たない。ひととひととのコミュニケーションが急速にデジタル化する中、彼らがとる行動は、実際に足を動かして会いに行くということ。デジタルが当たり前な生活にまみれるなかで、この二人の行動がとても原始的で、神話的でむしろ愛おしく思えたのは私だけだろうか。

「記憶ということ」
僕の頭の処理速度が遅いだけかもしれないけれど、作品中、現実と夢とが入り混じり、正直何が何だか、現実と夢との違いがわからなくなってくる。推理小説みたいに理を突き詰めて辻褄をあわせようとすると破綻しかねない危うさがある。それはもしかしたら、人の記憶の曖昧さ、儚さをそのまんまに描写し伝えようとした作者の意図なのかもしれないとも思った。例えば「どこかでお会いしましたっけ?」という漠然とした感覚。本当にあったのかもしれないし、ただの思い違いかもしれない。だけど、「どうしてこの人のこと知っているような気がするのだろう?」そう考えるだけで、ドキドキワクワクしてしまわないだろうか。実際に会ったことのある人、それも毎日会っていた友人のことさえも、ながらく会わないと忘れてしまうような人間が、会ったこともないかもしれないのに会ったことがあるって確信するって、これはもう、「100%の女の子」かどうかは分からないけれど、なにかあるかもしれない。そんな芳醇な物語を予感させる出会いを、今後大切にしていきたいと思った。

言葉にしてみるとしょうもない感想だし、精査できていない点もあるからひどくお粗末なものだけど、映画をみている間は、なんというか、鳥肌が止まらないのと頭がずっとぐわんぐわんするので、観賞後はとっても疲れました。ともあれ、「人が人のことを想う」というその原始的な行為の風景のようなものがいきいきと描写されていて、わたしは見事に糸の織りなす布に覆われたかのように、ほっこりとした気持ちになっていました。

『スポットライト 世紀のスクープ』を観て、考えたこと。

題名もストーリーの概要も、ありきたりな感じがして、
正直、期待していなかった、というか、
ともかく、友人が誘ってくれなかったら観に行くことは絶対になかったと思う。
まずは誘ってくれた友人に、心からの感謝。
 
『スポットライト 世紀のスクープ』
そのストーリーは、超はしょっていうと、
舞台はボストン、そこで起きていた神父による児童への性的虐待の実態を暴き公にするために、
地元の新聞社で、特集記事欄〈スポットライト〉を担当する
4名のチームが一丸となって取り組む話し。
 
この映画を観て、私が特に考えたことは、
だいぶ大雑把にまとめるとすれば、
「信仰」ということ、
「真実」ということ、そして
「人の痛み」ということ。
 
(注1 以下に書く感想のはあくまで「観て考えた」ことであり、必ずしも映画そのものと直接関係するものばかりではありません。)
(注2 書いてみて、「信仰」ということ、だけでめっちゃ長くなったので、3つの回に分けようと思います。体力があれば。)
 
まず、1点目「信仰」ということ、に関して。
 
全体を通して印象的だったのが、
地域において教会が果たす、
地域の人々の精神的な拠り所としての重要性だった。
 
映画での描写から推測するに、
貧困、家庭崩壊等々の、金銭的及び教育上の問題を抱えた子供達は
幼い頃から教会に引き取られ、神父によって教育され育てられているみたい。
また、ミサのようなものも開催されているようで、
教会近辺の人々は(回数の多寡はあれど)それに参加して、
神父の言葉に熱心に耳を傾け、うんうんと頷いていた。
 
「信仰とは、思考の放棄だ」
 
と言ったのは誰だか忘れてしまったし、
また、だからと言って信仰そのものを馬鹿にしているという意味では決してないけど、
教会という、長い歴史の中で発展し、また腐敗し衰退しながらも今日まで生きながらえている権力組織を、
良くも悪くも、無批判的に、篤く恃む傾向が未だに根強いというのが、
特定の宗教に傾倒したこともないし、むしろ宗教に対して懐疑的な態度をとる自分にとっては
すごく印象的だった。
 
で、ここからちょっとストーリーからドーンと脱線して、「信仰」について考えてみる。
 
正直なところ、私には、「信仰」というものがちょっとよくわからない。
だからこそ、信仰する人々に、惹かれる。興味がある。
 
どうして「神様」を信じることが出来るのか、分からない。
そもそも、信じているって、どういう状態のことを言うのだろう。
それは、自らの生を神のみに恃むということだろうか。
そうだとすれば、それは極めて危険な状態ではないだろうか。
だって、神様が「お前は死ね」って言ったら死ぬわけでしょう。
戦時中の日本みたいだ。
いや、それに限らず、神の名のもとに人々が(多くは積極的に)犠牲になってきた歴史は、
アステカ等の人身御供やら十字軍遠征やらで、高校生の時に世界史でちょっと習ったような気がする。
つまり、長いんだね、歴史が。
あれ、でも、待った。
「極めて危険な状態ではないだろうか」とか知ったかして言ったけど、
神様のために死ぬことが、もしかしたらその人にとっての幸せなのかもしれない。
じゃあ、邪魔したり止めたりするべきではないのか。もちろん、「公共の福祉」に反しない限りで。(ウロ覚え)
うーん、分からない。
 
人身御供として自らを捧げることになった人々に、
十字軍遠征に向かった人々に、神風特攻隊として突撃した人々に、
私は強く惹かれる。
さっきも言ったように、そういう境遇の人たちの気持ちがなかなか理解できないというか、腑に落ちないから。
 
なんで、よく分からない(はずの)もののために、死ねるの?
本気で、心の底から、曇りなき眼で、神の存在を信じてたの?
もしそうなら、どうしてそこまで固く信じることができたの?
もしそうでないなら、どうして、死ぬの。
 
なぜ、神なるものの存在に自らのすべてを捧げる覚悟ができたのか。
あるいは、覚悟なんて、実は出来ていなかったけど、どうしようもなかったのか。
何も考えていなかったのか。
だとすれば、
「え、それってマジ悲しくなかったですか?チョー辛くなかったですか?大丈夫だったんですか?」
とかいう感情的な質問は無意味で、こんな質問が生まれるのは、
ただ私が、近代以降の人間だからだろうか。
(つまり、その当時の人に、(語弊を恐れずに言えば)
「信じる」とか「悲しい」とか「辛い」とか、あるいは「死ぬのが嫌だ」という感情が、
そもそもなかったのかもしれないし、あるいはそれを表現する言語がなかったのかもしれない、ということ。)
また仮に、古代だろうが現代だろうが人は皆同じような感情と考えを有しているとして、
それを表現する術を持っていたとしても、
それを行使することが出来なかったのか。
何というか、「制裁」が怖くて。
確かに、人が集団になった時に蠢き出す暴力性、パワーって、そら恐ろしいものがありますから。
まあ分からなくはないよね。本当の気持ちを言って、周りから制裁を受けて、はみごにされて、生き地獄を何年も味わうくらいなら、
一瞬だけ痛いの我慢して死のうか、死んでも「神のためだ」っていうみんなの共通認識のもとだから、
一般的な自殺と違って誰にも迷惑かけないし、むしろ、喜んでくれるんでしょう?
 
例えば、自分が、もし戦時中に青年になっていて、
神風特攻隊として御国のために死ねと言われていたら、
どんな心境だったんだろう。
「御国のために死ぬなんて、本望です」
当時の模範的回答から逸脱せず、そう言えたのだろうか。
拒否をすれば、非国民でしょ。人間扱いなどされない。家族等々にも見放されるかもしれない。
まちがいなく、生き地獄でしょ。
うん、ならば、いっそ死ぬかあ。
もちろん、今「御国のために死ね!万歳!」なんて言われても「はあ知るかよアイス買ってくるわ」って感じだけど、
これがもし第二次世界大戦中だったり、あるいはグーンと昔に戻って古代アステカに生まれたりしていたら、
実際のところ、どうだったんだろう、って考えるよね。
 
うん、よく分からんけど。
 
はい。
こうやって、
人の生って、考えれば考えれば分からなくなるから、
ああ、確かに、思考を放棄したくなる。
気持ちは、分かる気がする。
形而上学的な思考のスイッチを押して、電源を切る。パチン。(←村上春樹風の歌を聴け』っぽいですよね分かります。)
 
そして、周りの大勢の人が「こうすれば確実に救われる!」「救われるらしいよ!」と説く宗教にとりあえず耳を傾けてみる。
つらぽよだから。マジ生きてるのもつらぽよだし、考えるのもつらぽよだから。
とりあえず誰かに話しを聞いてもらいたい。誰か知らんけど超能力的なもの持ってる人の話しを聞きたい。
もしかしたら新なる価値観に巡り合えて、毎日がハッピーホーリデーになるかもしれない。
はい、参加。
よく分からないけれど、救われるんでしょう、うわあ、みんなすごくストイックで、
でもなんだかすごく、生き生きとして幸せそうだなあ、
体験してみる?え、ええ、まあ興味はありますけど。ああ、はい、なんでもいいです、じゃあ、それで。
え、参加費ですか、ああ、なんでもいいです、払います。
あ、うーん、なんか、ようやく自分のコミュニティを見つけられたのかも。
みんなすごく親切。親身になって話し聞いてくれるし、
同じように昔死にたい死にたいばっかり考えてた人多くて共感しあえるし。
最近はなんか役割も与えられて、大切な仲間のために何か出来るのって、楽しいし。
嬉しい、ああ、久しぶりに、生きてるって感じる。
毎日が楽しい。
え、外部の世界?ああ、外は相変わらず、鬱陶しい、ここのコミュニティだけでいい。
外になんか、出たくない。親とも縁切ってきたし。出家遁世ってやつかな、ははは。
ああ、教祖さま、教祖さま、ありがとう、ありがとう。
私、なんでも、しますから。
人を殺して、
あるいは自分が死んで救われるなら、それでもいいんじゃない?
うん、いいよ。
今は楽しいけど、外で生きてるの、きっと死ぬほど辛いんだもの。
もし私の今の生活を侵すようなことを外の世界がしてきたら、全力で闘って、殺してやる。
どうにでもなれ。
思考停止。
 
とまあ、これは極端な例かもしれないけれど、
思考停止って、楽だよなあ、って。
すべてを誰か、何者かに委ねるって、楽だよなあ、って。
そういう感覚とか、過去の痛みを誰か内輪の人と共有できるって、有難いよなあ、って。
そりゃあ、抜けようと思っても足がぬかるみに入ったみたいに動こなくて、
そのまま底なし沼にずぶずぶと、ですわな。
 
と云うわけで、
信仰による思考停止に陥る人に、私はすごく興味があります。
だからこそ、
なんかは貪るように読みましたね。(あ、前者まだ読みかけやった・・・)
前者は、オウム神理教による地下鉄サリン事件の被害者の方々へのインタビュー集、
後者は、オウム神理教信者への人々たちへのインタビュー集。
 
ここで、
「思考停止」とか、「陥る」とか、「無批判」とか、
「信仰」にどっぷりハマる人々を散々バカにしたような言い回しを私してしまっているけど、
決して他人事ではないということを自覚しているということを、
ここに強調しておきたいと思います。
 
だって、人は弱いから。一般に思われている以上に、脆いから。
案外簡単に、ダメになってしまう。鬱とか、統合失調症とかね。
人間関係ひとつガタガタになってしまうだけで、発狂してしまうんですよ、人って。
 
例えば、高校時代、「こころ」とか「舞姫」とかを読んで、
「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ。(ドヤア」とか、
「我が豊太郎ぬしいいい、かくまでに我をば欺きたまひしかあああああ」とか、
それこそ馬鹿にして、面白おかしく鑑賞していたのに、
いつの間にか「あー、わかる、わかるわ、沁みるわな(真顔)」とかいうようになるんですよ。
 
「こころ」は、堅物で信仰心篤いKが、修行としてひたすら精進している矢先にお嬢さんに恋をしてしまい、
常より「精神的に向上心のない者は、馬鹿だ」(超訳:恋愛する者は、馬鹿だ。)と偉ぶって主張していたところの
「馬鹿」は他でもない自分自身になってしまい、それを友からも皮肉っぽく指摘され、
自分でも自分が分からずにもうどうしようもなくて、あっけなく壊れていくよね。
一方、
舞姫」は、近代という時代が与えた概念「自我」に目覚めた豊太郎を、
その時代のシステム自体が潰そうとする倒錯した状況の中で、
自我によって芽生えた自由恋愛を貫徹することが出来ずにお互いが破綻していく過程で
人の心がいかに弱いものかが怖いくらい生々しく描かれている。と思う。
それが現代にも通じるからこそ、これらの作品は今でも読み継がれているし、
また読むべきものとして高校教科書に掲載され続けているのだと思う。
 
まあ、「こころ」とか「舞姫」みたいな
ある種凄絶な破綻を例とせずとも、
各自で今まで、多かれ少なかれ「病んで」思い悩んでしまった経験を思い浮かべてもらうと、
まあちょっと間違ってたら自分もKとか先生とか豊太郎になり得たんじゃないかと思うんですよね。
(さすがにそこまで病んだことのある人は少数か。)
 
で、上に出した例は、自らを防御する暇もなく破綻してしまった例だけど、
普通は、(多分、)簡単に壊れてしまうから、だからこそ壊れてしまう前に防衛本能的なものが働いて、
危険を感じたらすぐさま複雑な思考をシャットダウンしてしまう、のだと思う。
そして簡潔で明快な、それでいて自分の理想に近い思想に共感し、遂にはその思想に
完全に自らを委ねるようになる。
 
村上春樹ばっかり引用に出して恐縮ですが(読書の偏りが露わになってまう…)
宗教と人間についての考察が散りばめられている、謎めいた長篇『1Q84』に以下のような言葉がありますね。
 
「世間のたいがいの人々は、実証可能な真実など求めてはいない。真実というのはおおかたの場合、あなたが言ったように、強い痛みを伴うものだ。そしてほとんどの人間は痛みを伴った真実なんぞ求めてはいない。人々が必要としているのは、自分の存在を少しでも意味深く感じさせてくれるような、美しく心地よいお話なんだ。だからこそ宗教が成立する」(村上春樹1Q84 BOOK2〈7月-9月〉』新潮社、2009、p234)
 
これだけでも大体言わんとすることは分かるんですけど、
見事な「抽象から具体」の書き方をしてあって、より詳細な記述がすぐ後にあるので、それも引用しますね。
 
「Aという説が、彼なり彼女なりの存在を意味深く見せてくれるなら、それは彼らにとって真実だし、Bという説が、彼なり彼女なりの存在を非力で矮小なものに見せるものであれば、それは偽物ということになる。とてもはっきりしている。もしBという説が真実だと主張するものがいたら、人々はおそらくその人物を憎み、黙殺し、ある場合には攻撃することだろう。論理が通っているとか実証可能だとか、そんなことは彼らにとって何の意味も持たない。多くの人々は、自分たちが非力で矮小な存在であるというイメージを否定し、排除することによってかろうじて正気を保っている」(村上春樹1Q84 BOOK2〈7月-9月〉』新潮社、2009、p234)
 
「かろうじて正気を保っている」。
そうだ、みんな、自分の存在を少しでも意味深いものとするために、必死なんだ。
実は「実証可能な真実」がみんな欲しいじゃなくて、自分にとって都合の良い解釈、説が欲しいだけ。
だから、「真実」なんて、そのためにいくらでも主観的につくりかえられる、可塑的なものなんだ。(Part.2に続く)
 
思えば、「信仰」なんてものは、
「祈り」と言い換えてもいいけど、
人類の歴史を同じくらい長い歴史を有する身体的及び精神的な営みじゃないのかな、って。
 
そういえば、高校の世界史の授業で、
ネアンデルタール人は死者の傍に花を供え、死者の冥福を祈っていたと考えられている。」
っていう文章が資料集にあって、
(そもそもその白骨遺体が本当にネアンデルタール人なのか、だとか、
お花の化石が白骨遺体の傍にあるのは単なる偶然じゃないのか、だとか、
お花を添えたから祈ってるってどうして分かるんだ因果関係あんのか、だとか
まあいろいろ突っ込み所はあるかもしれませんがそこはグッと呑みこんでもらって←)
ああ、祈りというものは、人類の深い深い意識の湖のようなところに根付いている行為なのかもしれないな、
とか当時ボーっと考えたことを思い出す。
 
だから、きっと人は「信仰」を捨てるなんてことは、
あるいはもっと平易に言えば「誰かのために、あるいは自分のために、その良い善き生を願い、祈る」という行為は、
絶対に出来ないのだろうし、また、無理に無くすべきでもないのだと思う。
 
で、ここから一気にまたグーンと映画のお話しに戻ってきて、
「そういう、人の根本的な営みの一つである「信仰」につけ込んで、
神父のような、教会からの大きな権力を付託された人間が
判断力の弱い子供に対して生涯のトラウマを植え付けてしまうようなことを働くということは、何よりも卑劣だと感じた。」
 
と、断言できたら、良かれ悪かれ対立構造は単純で、
ああじゃあ神父ダメだね教会もダメだね罰しようか、被害の補償はじめようか、チャンチャン、
っとまあ、話しは比較的簡単だったんだよね。きっと。
 
でも、そうは問屋がおろさない。(使い方あってる?)
 
膨大な数の被害者に対して、記者がインタビューをしていくんだけど、
その中に虐待を繰り返していたと考えられている神父にインタビューするシーンがあって(これ何でだっけ?)、
そこで「んんん」となる。
 
そこで神父は、「性的虐待をしていたというのは本当ですか。」
という記者からの質問に対して、こんな感じのことを言う。
「いたずらをしたのは確かだけれど、私はそれに悦びを感じていたわけではない。ここが重要なこと。」
これを聞いただけだと、「結局性的虐待しとるやんけお前、同情の余地なし、問答無用、はい連行ー!」って感じやし、
実際、記者も「では、性的虐待をしていたという事実は認めるんですね?」的な聞き返しをする。
で、その後よ。
 
「悦びを感じていたわけではないんだ、ここが重要なんだ、
なぜなら、自分もレイプされていたのだから。」
 
ん、んん?
んんん?
よく分からない。全く分からない。
でも、「ちょっと待て」と思う。
 
いろんな疑問が殺到します。
なんで悦びを感じていないのに、「いたずら」するの?
それが悪いことだっていう判断がないわけではないでしょう?違うの?
自分もレイプされて、それ、辛くなかったの?
辛くなかったとして、だからってそれを自分が子供に対してやってもいいの?
そういう思考はなかったの?
つまりなんで自分がレイプされたからって、他にしていいって判断するに至るの?
そして一気に、ゾクッとする。
あ、連鎖なんだな、って。
 
だって、神父に虐待された子供たち、もしかしたら
自分の子供とか他の子供とかに、虐待するかもしれないってことでしょう。
 
もちろんこの点は、神父に虐待された子供たちが、虐待を特になんとも思っていなくて、
(そもそも虐待だとも認識していないかもしれないけど…)それを自分が大人になった時に子供に対して行う
(でも悦びを感じない…ということはやっぱり嫌だったんじゃ?マジでわからん)ということに
何も「罪悪感」なるものを感じない場合に(たぶん)起こるのであって、
実際には、「神父に虐待された子供たちはその多くが大人になる前に病んだり死んだりしている」っていう、
映画で述べられていた事実からも、
そう簡単には虐待の「連鎖」は起こらないだろう、って思うし、思いたいんだけど、
何も確実なことは言えないよね。
そういえば、以前NHKの番組で、親から虐待されたことのある人を取材したものを観た記憶がある。
その時、被害者が何より怖いって言っていたのが、
虐待された自分が何よりも憎んでいた虐待という行為を、自分の子供に対してしてしまいそうになる瞬間だって
言っていたような…
ぬう。
そういう、感じ、というか、意味合いなのかな、
インタビューされた神父が言っていた、
「悦びを感じていたわけではないんだ…」っていう言葉。
 
で、その後、後ろから、鬼の形相をした神父さんの姉だと名乗る女の人が出てきたんだけど、
その人の顔、言葉が印象的で、ますます「虐待する神父」の心理面を掘り下げてみたい(掘り下げてくれ)と思った。
だって、お姉さんの顔、
記者に対する怒りが滲み出ていたのと同時に、弟に対する哀れみの涙さえ浮かべそうな顔だったんだもの。
「いやまあそうだろうよ」って言われるかもしれないけれど、
この神父さん、今までにも何回も記者が来て、同じことをきいてきて、
それにありのままに答えてたんだけど、
でも語られるのは「性的虐待していた」という点のみで、
自ら虐待されていた過去を考慮されないことに対して、一種諦めのようなものを感じていたんじゃないかな、
って、かなり乱暴だけど、考えてもみた。
で、弟の悲惨な過去を知る姉は、そんな弟の過去を何とも考慮しようともしない記者を
徹底的に憎み、一切を他人に語ることを止めてしまったのではないかな、とまで考えてみた。
でもこれもすごく表面的な考えなような気がしてならないし、
こんな単純でありきたりなストーリーに仕立てあげてしまうのは、
通り一遍の推理番組の見過ぎたせいかもしれない。
 
事実は小説よりも、数倍、奇なんだよ、きっと。君。
 
仮にさ、「連鎖」というものがあったとして、
じゃあ、その連鎖の発端って誰だ?って考えてみる。
そうなるともっと頭の中はグワングワンってなるし、
同時にさらにゾクッとする。
いろいろ考えてみて、
「世界でいちばんはじめの神父が登場してから」
という結論に至る。
というより、そういう結論をせざるを得なくなるんじゃないかな、と。
 
だって、ある時代の神父が虐待しなくて、ある時代の神父が虐待していた
なんて、誰に証明できるんだろう。
もちろん全ての神父が虐待していたなんて言うつもりはない。
けど、多かれ少なかれそういう神父がいただろうということは、
否定しえない。
人間の行動は、数学の背理法のような、簡潔で明快な方法で解明されることを拒絶するんだ。
「ない」ということを証明するのが難しいから、「ある」という前提から入って、
なんとか矛盾を見つけ出して、あ、矛盾してくるから「ない」ってことにしたい。
でも、そんなの、歴史の中では何の役にも立たない。
確かに「虐待がなかった」と証明するのは難しいけれど、
それだからといって「虐待があった」から入って矛盾が見つかるはずもなく、
ただ、「あった」「あったかもしれない」「なかったかもしれない」「ないとは言い切れない」
とか言ってさ、つまり、「なかった」なんてとてもじゃないけど断言できない。
 
思えば、虐待だって、信仰と同じように、
人類の歴史と同じくらい長い歴史を持つ行為なのかもしれないね。
「虐待」と言わずとも、「暴力」とか言い換えてもいいけど。
 
もう、ちょっと、話しが壮大になりすぎて、わけがわからなくなってきた(他人事)。
ちょっと疲れたから、この話しはまた今度(するかどうかは分からない)。
 
とりあえず、
次回は「真実」ということ、について考えてみたいですね。