『スポットライト 世紀のスクープ』を観て、考えたこと。

題名もストーリーの概要も、ありきたりな感じがして、
正直、期待していなかった、というか、
ともかく、友人が誘ってくれなかったら観に行くことは絶対になかったと思う。
まずは誘ってくれた友人に、心からの感謝。
 
『スポットライト 世紀のスクープ』
そのストーリーは、超はしょっていうと、
舞台はボストン、そこで起きていた神父による児童への性的虐待の実態を暴き公にするために、
地元の新聞社で、特集記事欄〈スポットライト〉を担当する
4名のチームが一丸となって取り組む話し。
 
この映画を観て、私が特に考えたことは、
だいぶ大雑把にまとめるとすれば、
「信仰」ということ、
「真実」ということ、そして
「人の痛み」ということ。
 
(注1 以下に書く感想のはあくまで「観て考えた」ことであり、必ずしも映画そのものと直接関係するものばかりではありません。)
(注2 書いてみて、「信仰」ということ、だけでめっちゃ長くなったので、3つの回に分けようと思います。体力があれば。)
 
まず、1点目「信仰」ということ、に関して。
 
全体を通して印象的だったのが、
地域において教会が果たす、
地域の人々の精神的な拠り所としての重要性だった。
 
映画での描写から推測するに、
貧困、家庭崩壊等々の、金銭的及び教育上の問題を抱えた子供達は
幼い頃から教会に引き取られ、神父によって教育され育てられているみたい。
また、ミサのようなものも開催されているようで、
教会近辺の人々は(回数の多寡はあれど)それに参加して、
神父の言葉に熱心に耳を傾け、うんうんと頷いていた。
 
「信仰とは、思考の放棄だ」
 
と言ったのは誰だか忘れてしまったし、
また、だからと言って信仰そのものを馬鹿にしているという意味では決してないけど、
教会という、長い歴史の中で発展し、また腐敗し衰退しながらも今日まで生きながらえている権力組織を、
良くも悪くも、無批判的に、篤く恃む傾向が未だに根強いというのが、
特定の宗教に傾倒したこともないし、むしろ宗教に対して懐疑的な態度をとる自分にとっては
すごく印象的だった。
 
で、ここからちょっとストーリーからドーンと脱線して、「信仰」について考えてみる。
 
正直なところ、私には、「信仰」というものがちょっとよくわからない。
だからこそ、信仰する人々に、惹かれる。興味がある。
 
どうして「神様」を信じることが出来るのか、分からない。
そもそも、信じているって、どういう状態のことを言うのだろう。
それは、自らの生を神のみに恃むということだろうか。
そうだとすれば、それは極めて危険な状態ではないだろうか。
だって、神様が「お前は死ね」って言ったら死ぬわけでしょう。
戦時中の日本みたいだ。
いや、それに限らず、神の名のもとに人々が(多くは積極的に)犠牲になってきた歴史は、
アステカ等の人身御供やら十字軍遠征やらで、高校生の時に世界史でちょっと習ったような気がする。
つまり、長いんだね、歴史が。
あれ、でも、待った。
「極めて危険な状態ではないだろうか」とか知ったかして言ったけど、
神様のために死ぬことが、もしかしたらその人にとっての幸せなのかもしれない。
じゃあ、邪魔したり止めたりするべきではないのか。もちろん、「公共の福祉」に反しない限りで。(ウロ覚え)
うーん、分からない。
 
人身御供として自らを捧げることになった人々に、
十字軍遠征に向かった人々に、神風特攻隊として突撃した人々に、
私は強く惹かれる。
さっきも言ったように、そういう境遇の人たちの気持ちがなかなか理解できないというか、腑に落ちないから。
 
なんで、よく分からない(はずの)もののために、死ねるの?
本気で、心の底から、曇りなき眼で、神の存在を信じてたの?
もしそうなら、どうしてそこまで固く信じることができたの?
もしそうでないなら、どうして、死ぬの。
 
なぜ、神なるものの存在に自らのすべてを捧げる覚悟ができたのか。
あるいは、覚悟なんて、実は出来ていなかったけど、どうしようもなかったのか。
何も考えていなかったのか。
だとすれば、
「え、それってマジ悲しくなかったですか?チョー辛くなかったですか?大丈夫だったんですか?」
とかいう感情的な質問は無意味で、こんな質問が生まれるのは、
ただ私が、近代以降の人間だからだろうか。
(つまり、その当時の人に、(語弊を恐れずに言えば)
「信じる」とか「悲しい」とか「辛い」とか、あるいは「死ぬのが嫌だ」という感情が、
そもそもなかったのかもしれないし、あるいはそれを表現する言語がなかったのかもしれない、ということ。)
また仮に、古代だろうが現代だろうが人は皆同じような感情と考えを有しているとして、
それを表現する術を持っていたとしても、
それを行使することが出来なかったのか。
何というか、「制裁」が怖くて。
確かに、人が集団になった時に蠢き出す暴力性、パワーって、そら恐ろしいものがありますから。
まあ分からなくはないよね。本当の気持ちを言って、周りから制裁を受けて、はみごにされて、生き地獄を何年も味わうくらいなら、
一瞬だけ痛いの我慢して死のうか、死んでも「神のためだ」っていうみんなの共通認識のもとだから、
一般的な自殺と違って誰にも迷惑かけないし、むしろ、喜んでくれるんでしょう?
 
例えば、自分が、もし戦時中に青年になっていて、
神風特攻隊として御国のために死ねと言われていたら、
どんな心境だったんだろう。
「御国のために死ぬなんて、本望です」
当時の模範的回答から逸脱せず、そう言えたのだろうか。
拒否をすれば、非国民でしょ。人間扱いなどされない。家族等々にも見放されるかもしれない。
まちがいなく、生き地獄でしょ。
うん、ならば、いっそ死ぬかあ。
もちろん、今「御国のために死ね!万歳!」なんて言われても「はあ知るかよアイス買ってくるわ」って感じだけど、
これがもし第二次世界大戦中だったり、あるいはグーンと昔に戻って古代アステカに生まれたりしていたら、
実際のところ、どうだったんだろう、って考えるよね。
 
うん、よく分からんけど。
 
はい。
こうやって、
人の生って、考えれば考えれば分からなくなるから、
ああ、確かに、思考を放棄したくなる。
気持ちは、分かる気がする。
形而上学的な思考のスイッチを押して、電源を切る。パチン。(←村上春樹風の歌を聴け』っぽいですよね分かります。)
 
そして、周りの大勢の人が「こうすれば確実に救われる!」「救われるらしいよ!」と説く宗教にとりあえず耳を傾けてみる。
つらぽよだから。マジ生きてるのもつらぽよだし、考えるのもつらぽよだから。
とりあえず誰かに話しを聞いてもらいたい。誰か知らんけど超能力的なもの持ってる人の話しを聞きたい。
もしかしたら新なる価値観に巡り合えて、毎日がハッピーホーリデーになるかもしれない。
はい、参加。
よく分からないけれど、救われるんでしょう、うわあ、みんなすごくストイックで、
でもなんだかすごく、生き生きとして幸せそうだなあ、
体験してみる?え、ええ、まあ興味はありますけど。ああ、はい、なんでもいいです、じゃあ、それで。
え、参加費ですか、ああ、なんでもいいです、払います。
あ、うーん、なんか、ようやく自分のコミュニティを見つけられたのかも。
みんなすごく親切。親身になって話し聞いてくれるし、
同じように昔死にたい死にたいばっかり考えてた人多くて共感しあえるし。
最近はなんか役割も与えられて、大切な仲間のために何か出来るのって、楽しいし。
嬉しい、ああ、久しぶりに、生きてるって感じる。
毎日が楽しい。
え、外部の世界?ああ、外は相変わらず、鬱陶しい、ここのコミュニティだけでいい。
外になんか、出たくない。親とも縁切ってきたし。出家遁世ってやつかな、ははは。
ああ、教祖さま、教祖さま、ありがとう、ありがとう。
私、なんでも、しますから。
人を殺して、
あるいは自分が死んで救われるなら、それでもいいんじゃない?
うん、いいよ。
今は楽しいけど、外で生きてるの、きっと死ぬほど辛いんだもの。
もし私の今の生活を侵すようなことを外の世界がしてきたら、全力で闘って、殺してやる。
どうにでもなれ。
思考停止。
 
とまあ、これは極端な例かもしれないけれど、
思考停止って、楽だよなあ、って。
すべてを誰か、何者かに委ねるって、楽だよなあ、って。
そういう感覚とか、過去の痛みを誰か内輪の人と共有できるって、有難いよなあ、って。
そりゃあ、抜けようと思っても足がぬかるみに入ったみたいに動こなくて、
そのまま底なし沼にずぶずぶと、ですわな。
 
と云うわけで、
信仰による思考停止に陥る人に、私はすごく興味があります。
だからこそ、
なんかは貪るように読みましたね。(あ、前者まだ読みかけやった・・・)
前者は、オウム神理教による地下鉄サリン事件の被害者の方々へのインタビュー集、
後者は、オウム神理教信者への人々たちへのインタビュー集。
 
ここで、
「思考停止」とか、「陥る」とか、「無批判」とか、
「信仰」にどっぷりハマる人々を散々バカにしたような言い回しを私してしまっているけど、
決して他人事ではないということを自覚しているということを、
ここに強調しておきたいと思います。
 
だって、人は弱いから。一般に思われている以上に、脆いから。
案外簡単に、ダメになってしまう。鬱とか、統合失調症とかね。
人間関係ひとつガタガタになってしまうだけで、発狂してしまうんですよ、人って。
 
例えば、高校時代、「こころ」とか「舞姫」とかを読んで、
「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ。(ドヤア」とか、
「我が豊太郎ぬしいいい、かくまでに我をば欺きたまひしかあああああ」とか、
それこそ馬鹿にして、面白おかしく鑑賞していたのに、
いつの間にか「あー、わかる、わかるわ、沁みるわな(真顔)」とかいうようになるんですよ。
 
「こころ」は、堅物で信仰心篤いKが、修行としてひたすら精進している矢先にお嬢さんに恋をしてしまい、
常より「精神的に向上心のない者は、馬鹿だ」(超訳:恋愛する者は、馬鹿だ。)と偉ぶって主張していたところの
「馬鹿」は他でもない自分自身になってしまい、それを友からも皮肉っぽく指摘され、
自分でも自分が分からずにもうどうしようもなくて、あっけなく壊れていくよね。
一方、
舞姫」は、近代という時代が与えた概念「自我」に目覚めた豊太郎を、
その時代のシステム自体が潰そうとする倒錯した状況の中で、
自我によって芽生えた自由恋愛を貫徹することが出来ずにお互いが破綻していく過程で
人の心がいかに弱いものかが怖いくらい生々しく描かれている。と思う。
それが現代にも通じるからこそ、これらの作品は今でも読み継がれているし、
また読むべきものとして高校教科書に掲載され続けているのだと思う。
 
まあ、「こころ」とか「舞姫」みたいな
ある種凄絶な破綻を例とせずとも、
各自で今まで、多かれ少なかれ「病んで」思い悩んでしまった経験を思い浮かべてもらうと、
まあちょっと間違ってたら自分もKとか先生とか豊太郎になり得たんじゃないかと思うんですよね。
(さすがにそこまで病んだことのある人は少数か。)
 
で、上に出した例は、自らを防御する暇もなく破綻してしまった例だけど、
普通は、(多分、)簡単に壊れてしまうから、だからこそ壊れてしまう前に防衛本能的なものが働いて、
危険を感じたらすぐさま複雑な思考をシャットダウンしてしまう、のだと思う。
そして簡潔で明快な、それでいて自分の理想に近い思想に共感し、遂にはその思想に
完全に自らを委ねるようになる。
 
村上春樹ばっかり引用に出して恐縮ですが(読書の偏りが露わになってまう…)
宗教と人間についての考察が散りばめられている、謎めいた長篇『1Q84』に以下のような言葉がありますね。
 
「世間のたいがいの人々は、実証可能な真実など求めてはいない。真実というのはおおかたの場合、あなたが言ったように、強い痛みを伴うものだ。そしてほとんどの人間は痛みを伴った真実なんぞ求めてはいない。人々が必要としているのは、自分の存在を少しでも意味深く感じさせてくれるような、美しく心地よいお話なんだ。だからこそ宗教が成立する」(村上春樹1Q84 BOOK2〈7月-9月〉』新潮社、2009、p234)
 
これだけでも大体言わんとすることは分かるんですけど、
見事な「抽象から具体」の書き方をしてあって、より詳細な記述がすぐ後にあるので、それも引用しますね。
 
「Aという説が、彼なり彼女なりの存在を意味深く見せてくれるなら、それは彼らにとって真実だし、Bという説が、彼なり彼女なりの存在を非力で矮小なものに見せるものであれば、それは偽物ということになる。とてもはっきりしている。もしBという説が真実だと主張するものがいたら、人々はおそらくその人物を憎み、黙殺し、ある場合には攻撃することだろう。論理が通っているとか実証可能だとか、そんなことは彼らにとって何の意味も持たない。多くの人々は、自分たちが非力で矮小な存在であるというイメージを否定し、排除することによってかろうじて正気を保っている」(村上春樹1Q84 BOOK2〈7月-9月〉』新潮社、2009、p234)
 
「かろうじて正気を保っている」。
そうだ、みんな、自分の存在を少しでも意味深いものとするために、必死なんだ。
実は「実証可能な真実」がみんな欲しいじゃなくて、自分にとって都合の良い解釈、説が欲しいだけ。
だから、「真実」なんて、そのためにいくらでも主観的につくりかえられる、可塑的なものなんだ。(Part.2に続く)
 
思えば、「信仰」なんてものは、
「祈り」と言い換えてもいいけど、
人類の歴史を同じくらい長い歴史を有する身体的及び精神的な営みじゃないのかな、って。
 
そういえば、高校の世界史の授業で、
ネアンデルタール人は死者の傍に花を供え、死者の冥福を祈っていたと考えられている。」
っていう文章が資料集にあって、
(そもそもその白骨遺体が本当にネアンデルタール人なのか、だとか、
お花の化石が白骨遺体の傍にあるのは単なる偶然じゃないのか、だとか、
お花を添えたから祈ってるってどうして分かるんだ因果関係あんのか、だとか
まあいろいろ突っ込み所はあるかもしれませんがそこはグッと呑みこんでもらって←)
ああ、祈りというものは、人類の深い深い意識の湖のようなところに根付いている行為なのかもしれないな、
とか当時ボーっと考えたことを思い出す。
 
だから、きっと人は「信仰」を捨てるなんてことは、
あるいはもっと平易に言えば「誰かのために、あるいは自分のために、その良い善き生を願い、祈る」という行為は、
絶対に出来ないのだろうし、また、無理に無くすべきでもないのだと思う。
 
で、ここから一気にまたグーンと映画のお話しに戻ってきて、
「そういう、人の根本的な営みの一つである「信仰」につけ込んで、
神父のような、教会からの大きな権力を付託された人間が
判断力の弱い子供に対して生涯のトラウマを植え付けてしまうようなことを働くということは、何よりも卑劣だと感じた。」
 
と、断言できたら、良かれ悪かれ対立構造は単純で、
ああじゃあ神父ダメだね教会もダメだね罰しようか、被害の補償はじめようか、チャンチャン、
っとまあ、話しは比較的簡単だったんだよね。きっと。
 
でも、そうは問屋がおろさない。(使い方あってる?)
 
膨大な数の被害者に対して、記者がインタビューをしていくんだけど、
その中に虐待を繰り返していたと考えられている神父にインタビューするシーンがあって(これ何でだっけ?)、
そこで「んんん」となる。
 
そこで神父は、「性的虐待をしていたというのは本当ですか。」
という記者からの質問に対して、こんな感じのことを言う。
「いたずらをしたのは確かだけれど、私はそれに悦びを感じていたわけではない。ここが重要なこと。」
これを聞いただけだと、「結局性的虐待しとるやんけお前、同情の余地なし、問答無用、はい連行ー!」って感じやし、
実際、記者も「では、性的虐待をしていたという事実は認めるんですね?」的な聞き返しをする。
で、その後よ。
 
「悦びを感じていたわけではないんだ、ここが重要なんだ、
なぜなら、自分もレイプされていたのだから。」
 
ん、んん?
んんん?
よく分からない。全く分からない。
でも、「ちょっと待て」と思う。
 
いろんな疑問が殺到します。
なんで悦びを感じていないのに、「いたずら」するの?
それが悪いことだっていう判断がないわけではないでしょう?違うの?
自分もレイプされて、それ、辛くなかったの?
辛くなかったとして、だからってそれを自分が子供に対してやってもいいの?
そういう思考はなかったの?
つまりなんで自分がレイプされたからって、他にしていいって判断するに至るの?
そして一気に、ゾクッとする。
あ、連鎖なんだな、って。
 
だって、神父に虐待された子供たち、もしかしたら
自分の子供とか他の子供とかに、虐待するかもしれないってことでしょう。
 
もちろんこの点は、神父に虐待された子供たちが、虐待を特になんとも思っていなくて、
(そもそも虐待だとも認識していないかもしれないけど…)それを自分が大人になった時に子供に対して行う
(でも悦びを感じない…ということはやっぱり嫌だったんじゃ?マジでわからん)ということに
何も「罪悪感」なるものを感じない場合に(たぶん)起こるのであって、
実際には、「神父に虐待された子供たちはその多くが大人になる前に病んだり死んだりしている」っていう、
映画で述べられていた事実からも、
そう簡単には虐待の「連鎖」は起こらないだろう、って思うし、思いたいんだけど、
何も確実なことは言えないよね。
そういえば、以前NHKの番組で、親から虐待されたことのある人を取材したものを観た記憶がある。
その時、被害者が何より怖いって言っていたのが、
虐待された自分が何よりも憎んでいた虐待という行為を、自分の子供に対してしてしまいそうになる瞬間だって
言っていたような…
ぬう。
そういう、感じ、というか、意味合いなのかな、
インタビューされた神父が言っていた、
「悦びを感じていたわけではないんだ…」っていう言葉。
 
で、その後、後ろから、鬼の形相をした神父さんの姉だと名乗る女の人が出てきたんだけど、
その人の顔、言葉が印象的で、ますます「虐待する神父」の心理面を掘り下げてみたい(掘り下げてくれ)と思った。
だって、お姉さんの顔、
記者に対する怒りが滲み出ていたのと同時に、弟に対する哀れみの涙さえ浮かべそうな顔だったんだもの。
「いやまあそうだろうよ」って言われるかもしれないけれど、
この神父さん、今までにも何回も記者が来て、同じことをきいてきて、
それにありのままに答えてたんだけど、
でも語られるのは「性的虐待していた」という点のみで、
自ら虐待されていた過去を考慮されないことに対して、一種諦めのようなものを感じていたんじゃないかな、
って、かなり乱暴だけど、考えてもみた。
で、弟の悲惨な過去を知る姉は、そんな弟の過去を何とも考慮しようともしない記者を
徹底的に憎み、一切を他人に語ることを止めてしまったのではないかな、とまで考えてみた。
でもこれもすごく表面的な考えなような気がしてならないし、
こんな単純でありきたりなストーリーに仕立てあげてしまうのは、
通り一遍の推理番組の見過ぎたせいかもしれない。
 
事実は小説よりも、数倍、奇なんだよ、きっと。君。
 
仮にさ、「連鎖」というものがあったとして、
じゃあ、その連鎖の発端って誰だ?って考えてみる。
そうなるともっと頭の中はグワングワンってなるし、
同時にさらにゾクッとする。
いろいろ考えてみて、
「世界でいちばんはじめの神父が登場してから」
という結論に至る。
というより、そういう結論をせざるを得なくなるんじゃないかな、と。
 
だって、ある時代の神父が虐待しなくて、ある時代の神父が虐待していた
なんて、誰に証明できるんだろう。
もちろん全ての神父が虐待していたなんて言うつもりはない。
けど、多かれ少なかれそういう神父がいただろうということは、
否定しえない。
人間の行動は、数学の背理法のような、簡潔で明快な方法で解明されることを拒絶するんだ。
「ない」ということを証明するのが難しいから、「ある」という前提から入って、
なんとか矛盾を見つけ出して、あ、矛盾してくるから「ない」ってことにしたい。
でも、そんなの、歴史の中では何の役にも立たない。
確かに「虐待がなかった」と証明するのは難しいけれど、
それだからといって「虐待があった」から入って矛盾が見つかるはずもなく、
ただ、「あった」「あったかもしれない」「なかったかもしれない」「ないとは言い切れない」
とか言ってさ、つまり、「なかった」なんてとてもじゃないけど断言できない。
 
思えば、虐待だって、信仰と同じように、
人類の歴史と同じくらい長い歴史を持つ行為なのかもしれないね。
「虐待」と言わずとも、「暴力」とか言い換えてもいいけど。
 
もう、ちょっと、話しが壮大になりすぎて、わけがわからなくなってきた(他人事)。
ちょっと疲れたから、この話しはまた今度(するかどうかは分からない)。
 
とりあえず、
次回は「真実」ということ、について考えてみたいですね。