『君の名は。』を観て、感じたこと、考えたこと。

 

君の名は。』を観る。

この映画を観て、帰りの電車の中でポツポツと考えていること。あくまでメモ書き。アルコールもしっかり摂取してしまったし、記憶も曖昧になりつつもあるので、内容の正確性は厳密に検証しない。
「糸ということ」、「100%の女の子ということ」、「デジタルなのにアナログということ」、「記憶ということ」。

「糸ということ」

「縦の糸はあなた 横の糸は私
逢うべき糸に 出逢えることを
人は 仕合わせと呼びます」
中島みゆき「糸」の一節。ひとはそれぞれ一本の糸であり、その糸と糸の交わりによってそれは布となり、誰かをあたため、かばい、そしていやすのかもしれない。この映画には、「糸」という言葉も、実際の「糸」も、よく描写されていたのが印象的だ。髪を結う糸、神事に使う糸、お守りとしての糸。そして「結う」という、「糸」を目的語とする動詞がそのまま「大地」を意味しているのだよという、おばあちゃんの言葉も印象的だった。地に足ついて、一人一人の糸を誰かの糸とからめながら、人を、そして人のたつ土地をおおい、人はしあわせを探すのだろうか。

100%の女の子ということ」
あえて作者は言わないけれど、「4月のある晴れた日に100%の女の子に出会うこと」という小説がある。だいぶ雑に言うと、原宿かどこかで、主人公の男性が街中である女の子を見かけて「これこそ僕が求めていた100%の女の子だ。」と確信するお話し。うろ覚えだし、なんだかよくわからない話しだが、この映画をみて、そういう瞬間って、なきにしもあらずかもしれないと思った。主人公である二人は、お互いに顔も何も知らず、会ったことのない状態で、「もし入れ替わっている相手が目の前に現れたとしたら、絶対にわかる」と確信する。そんなことってありえないかもしれないけれど、「あれ、どこかでお会いしましたっけ?」という個人的によくあるこの感覚、もしかしたら宿世の深い縁のある人なのかもしれないと思って接しようと思ったりもした。

「デジタルなのにアナログということ」
二人の主人公、それぞれ東京の大都会と岐阜のど田舎というてんでアンバランス?なところに住んでいるが、どちらもLINEはやっているし、一般的には物理的な距離を気にせずコミュニケーションをとることは可能だ。お互いの連絡先さえ知っていれば。この二人はお互い連絡をとるすべを持たない。ひととひととのコミュニケーションが急速にデジタル化する中、彼らがとる行動は、実際に足を動かして会いに行くということ。デジタルが当たり前な生活にまみれるなかで、この二人の行動がとても原始的で、神話的でむしろ愛おしく思えたのは私だけだろうか。

「記憶ということ」
僕の頭の処理速度が遅いだけかもしれないけれど、作品中、現実と夢とが入り混じり、正直何が何だか、現実と夢との違いがわからなくなってくる。推理小説みたいに理を突き詰めて辻褄をあわせようとすると破綻しかねない危うさがある。それはもしかしたら、人の記憶の曖昧さ、儚さをそのまんまに描写し伝えようとした作者の意図なのかもしれないとも思った。例えば「どこかでお会いしましたっけ?」という漠然とした感覚。本当にあったのかもしれないし、ただの思い違いかもしれない。だけど、「どうしてこの人のこと知っているような気がするのだろう?」そう考えるだけで、ドキドキワクワクしてしまわないだろうか。実際に会ったことのある人、それも毎日会っていた友人のことさえも、ながらく会わないと忘れてしまうような人間が、会ったこともないかもしれないのに会ったことがあるって確信するって、これはもう、「100%の女の子」かどうかは分からないけれど、なにかあるかもしれない。そんな芳醇な物語を予感させる出会いを、今後大切にしていきたいと思った。

言葉にしてみるとしょうもない感想だし、精査できていない点もあるからひどくお粗末なものだけど、映画をみている間は、なんというか、鳥肌が止まらないのと頭がずっとぐわんぐわんするので、観賞後はとっても疲れました。ともあれ、「人が人のことを想う」というその原始的な行為の風景のようなものがいきいきと描写されていて、わたしは見事に糸の織りなす布に覆われたかのように、ほっこりとした気持ちになっていました。