『怒り』を観て、考えたこと。

『怒り』を観てきました。

観る前に中途半端にお腹空いてたんでセブンイレブンでフライドチキン?を買って食べたんだけど、冒頭場面観てすぐにあ、やってしまったと思いました。強い吐き気はしばらく尾をひきました。

人のエネルギーは凄まじい。都会だろうと大自然の中だろうと、人と人が関わればすごい量のエネルギーが生じるんだなと思った。繁華街がいい例。繁華街には都会も田舎も関係ない。エネルギー、特に性的なエネルギーを発散させる場がない土地は、エネルギーが行き場を失い、思いがけないコトを引き起こすと書いていたのは、鷲田清一だったか。 

人が人に疑われる、人が人を疑う、人が人に裏切られる、人が人を裏切る、人が人を信じる。この「事実」が当事者間で認知されたとき、人はその人自身の内側からものすごいエネルギーを爆発させる。泣く、叫ぶ、壊す、叫ぶ、壊す、泣く…。ともかく、凄い。こんな当たり前のことを、この映画は思い出させてくれました。

映画自体が放つエネルギーが凄すぎて、正直感想が纏まりません。軽い頭痛がする。ただ、今わたしが確実に言いたいことは一つです。

「俺は人の目をみると分かるんだよ。そいつが何考えてんのか全部。それで、あ、こいつちょっとかましたら俺のこと簡単に信じそうだなー、とか、わかんの。なんでかわかんないけど、わかっちゃうの。」という田中の言葉(細部は違うと思うけど大体はこんな感じのこと言ってたと思う)、これは、嘘だ、と思う。(ここで「思う」とかいう曖昧な表現じゃなくて「断言する」とかいうキレのいい言葉を使えたらいいのだろうけれど、そうしちゃうと私が自己撞着に陥ることになるので、それは出来ない。)つまり、人は人のことなんて、ホントのところは分からない。分からないから決断がいる、そのための勇気がいる。信じるか信じないか、愛するか愛さないか、裏切るべきか裏切らざるべきか…。だから人間関係はムツカシイ。けど、だからこそ逆に、お互いのこころを本当に理解しあうことが出来ないからこそ、寸前のところで皆正気を保っているのだと思う。(お互いがお互いホントに「心の中」で思っていることを口にだしたらどんな恐ろしいことが世の中に起こるだろうか。)そのことを私たちは受け入れる、つまり、人が人を理解する・受け入れる・信じる・愛するということの不完全性、不確実性を切に引き受けた上で、人は人との関係の、欲を言えば「よりよい関係」の構築に誠心誠意努力すべきだという考えに、わたしはたちたい。もちろん田中だって、この言葉を通じて、自分が自分に嘘ついてる、って、分かっていたのではないかと思う。嘘だって自分でも分かってるから、でも嘘をつかずにはいれれないから、エネルギーがうまく流れず滞留し、マグマ溜まりに溜まったマグマが瞬間的爆発的に噴き出すように、最後、あんな破滅的な破壊行為、自傷行為をしたんだとわたしは思う。

何度も言うけど、人を信じることも、愛することも、疑うことも、裏切ることも、ものすごく、ものすごくエネルギーがいる。ラストシーン近くなんて、もうみんな、泣く、叫ぶ、壊す、壊す、壊す、抱きしめる、泣くでもう、カオス状態。悲しみ、哀しみ、怒り、憤り、自己嫌悪。ああ、人の感情は、結局は脆いガラス同士が震え合うように、共鳴するものなんだな、その共鳴が「正か負か」どちらであるかによってその人間間におよぼす影響は全く異なるのだろうと、改めて認識させられた。(「瀬戸物と瀬戸物…」みたいなACジャパンのCM、ありましたね。)そんなもんだから、でもまあそんなだからこそ、人ってオモシロイし、いいよなあって思ったわたしは、おかしいのでしょうか。

わたしは、この映画を観て、映画のどこかで述べられていたように、「大切なものは増えるものではなく、減っていくもの」であるという悲しく切ない事実を真正面から引き受けた上で、わたしを想ってくれる人を、能うる限りの誠実さと思い遣りを以って、大切に守ってゆきたい、そしてそのための努力を日々の営みの中に貫いていきたい、と強く思いました。

とか書いていると、家に着きました。疲れました。おやすみなさい。ありがとう。