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同志社第三劇場による『ミミズクと夜の王』を観て、感じたこと。

同志社第三劇場さんによる『ミミズクと夜の王』(「ねぇ、あたしのこと、たべてくれませんか?」死にたがりやのミミズクと、人間嫌いの夜の王。すべての始まりは、美しい月夜だった。)を観てきました。

場所を確認もせずクローバーホールだろうとなぜか確信してズカズカと歩みを進めていったらもぬけの殻で、確認したら学生会館別館だとわかり、開演間際ということもあって、猛ダッシュしました(開演時間に間に合わなかったら入場できないという点は確認していた)。人に観てきて欲しいと頼まれたものだったので、新町キャンパスに着いたものの会場に行ったことがなくてどこやねんっとなった私は半ばヤケになってほくそ笑みながら、万が一観れなかった時の言い訳をどうしようか考えたりしていました。結果、とりあえず間に合ってよかった。そういえば、今出川駅から地上に出た時、今出川キャンパス越しに見えた月がとても綺麗でした。

さて、気を取り直して内容に関しての感想を書いてみたいと思います。※引用のセリフや具体的なストーリー内容については、筆者の記憶を元にしているため、正確ではない場合があります。

わたしがこの演劇を観て受けた印象を一言にまとめると、人のこころの不可思議さとそのエネルギーを、豊かなアレゴリーを含む物語で表現した作品だと感じた、ということになるでしょうか。

物語の舞台は中世ヨーロッパ都市を彷彿とさせる(行ったことないけど!世界史の資料集で見ただけだけど!)。都市の中で、人々は資本主義の原理で、市場(いちば)の中で生計を立て、暮らしている。一方で、人々の暮らしを一歩隔てたところには深い森があり、その中には魔物がいて、そのトップに強力な魔力を有する「夜の王」がいて、人々は恐れ、嫌っている。物語は、その「夜の王」に、「ミミズク」と自らを名付けた素性のしれない少女が、わたしを食べてくださいという旨の突拍子もない懇願をするところからはじまる。

この劇を観て、わたしにとって印象的だったことをもう少し具体的に表現するとすれば、ひとつは、ひとが自らの中に育む意識的無意識的な「記憶」を引き受けることの難しさと大切さ、そしてもうひとつは、「魔力」という言葉に委ねられた、ひとの感情が有するエネルギーがいかに大きいかということだと思います。

「記憶」ということについては、昨今観た『君の名は。』を思い出させずにはいられない。どこか自分という存在の奥深いところに、忘れ去られた物語が横たわるように沈んでいるという確信。その物語が、ある瞬間、ある刺激を契機に、ふとカラダの底からぷくぷくと泡出ちはじめ、それが一気に噴火するマグマのように沸々と湧き上がり激流となって「記憶」として人の中に蘇ったとき、人は、ただどうしようもなく傷つき損なわれるのかもしれない、あるいは、何か不可思議な力を得るのかもしれない。ただ、どちらにしろ、自らの中に意識的にしろ無意識的にしろ、飼い慣らしてきた物語にめぐりあったとき、人は我がものとして、自らそれをしかと引き受けなければならないし、そうすることによって、何というか、道が拓けるのかもしれないということを考えさせられた。王国の騎士と魔術師たちが「夜の王」を捕獲する際、「夜の王」が「ミミズク」を護るためにかけた魔法は、「ミミズク」が慕い尊敬する「夜の王」に関わる記憶を奪うものだった。「夜の王」はあっさりと王国側に捕らえられる。一方、「ミミズク」は、記憶を失ったまま王国側に保護され、そこで「夜の王」と自らの哀しい過去を忘れたまま新たな生を送る。だが、「夜の王」のために「煉花」を採りに森に入ったときにであった王国の狩人との再会、その狩人の記憶の語らいによって、「ミミズク」は失われた記憶を取り戻す。その時の「夜の王」に対する怒りと哀しみは、「なぜ、どうして」という慟哭は、強大な感情のエネルギーとなって、演者を通して、わたしを圧倒した。そして私の中に、私がとうに忘れてしまっているが私にとって大切な物語があるのだとすれば、私は私の中に潜り込んででもそれを掴み取りたいし、それに向き合い、引き受けたいと思った。

そしてもうひとつ、エネルギーに関連して、「魔力」という名に仮託された、ひとの感情が放出するエネルギーの凄さについて。これも最近観た『怒り』を受けてこの頃よく考えていることなのだけれど、人は昔から、人のもつ禍々しい感情の不可思議さ、恐ろしさを、「魔力」という、よくわからないが畏敬と侮蔑の想いを込めた名称で、呼んできたのではないかと思った。魔王のような存在として恐れられる「夜の王」も、かつては人間の子(王子)だったことが明かされる。だが、不運にも生まれた頃に国が荒れていて、実の親からも国民からも愛想をつかれ、誰にも愛されなかった。その深い哀しみと怒りは自らの中にもう一人の自分の化身であろう悪魔を呼び寄せ、死ぬ代わりに生きることを選んだ少年(?)に、「魔力」を捧げた。「魔力」は強大で、国ひとつ平気で滅ぼしかねないという。わたしはここで、この「魔力」は、何も特別な人間にだけ付与されるものなどではなく、人一人ひとりが生きようとするその意志そのもの、エネルギーそのものだと思った。その必死に生きようとする意志があまりにも強大すぎた時、しかしその強い意志を生じさせる契機となった出来事に対して何ら解決策などなくどうしようも出来ないと感じる時、そのエネルギーは「魔力」と化し、悪魔的な力をその人間に与えるのかもしれないと思った。誰にも愛されなかった哀しみはいかほど強かったのだろう。そして「魔力」となったエネルギーによって、同族である人間からますます忌避されることのなった「夜の王」のやるせなさはいかほどのものだったのだろうと考えずにはいられなかった。ここで「夜の王」の対比として、「ミミズク」の存在が私の中で浮かび上がってくる。穢多・非人のような凄惨な生活をかつて強いられた「ミミズク」の、自らへの境遇と世間への憤りも大きなものだっただろう。しかし彼女はもしかしたらそのエネルギーを上手く自らに引き受けることが出来ずに、ある種半狂乱のような状態に陥ってしまった。だからこそ彼女は、このエネルギーをある意味でコントロールすることが出来た「夜の王」の独特の高貴さ、孤高さに惹かれ、慕い、この人に食べられたいと思ったのかもしれない。「夜の王」と「ミミズク」、同様の境遇にありながらも対照的な性格となったらしい経緯について思いを巡らすことによって、人が持つ感情が発するエネルギー、力の大きさを、「魔力」という比喩を通じて巧みに語りかけられたような気がした。

ストーリー内容自体について、小説が原作としてあることを鑑みてあまりとかく言うべきではないと思うのだけれど、一点だけ、わたしが個人的に気に入らなかった点がある。それは、最後「夜の王」が、王国の王子である「クローディア」の麻痺した手足を治した点である。これは最近、佐多稲子の小説「水」を読んだことが影響していると思うが、彼は彼の身体の悲哀を、小説の言葉を借りるなら「悲しみの重さ」を、自らに引き受けるべきだったとわたしは思う。治ったことで王が安心する。王子も王の期待に応えられる素地が整ってあとは引き継ぎを受けるだけ。確かにハッピーエンドかもしれない。だがこれで、「クローディア」にとって、この物語にとって、これで良かったのかと、わたしは疑問を呈せずにはいられない。「夜の王」も「ミミズク」も、各様のやり方で自らの哀しみを引き受けた。これに倣って「クローディア」も、自ら背負う身体の哀しみと愛の欠如という苦しみを引き受けることによって、物語として説得性があったのではないかと思う。(これはあくまで「この物語において」ということであり、世間一般についてこのような決断を強いる旨の発言ではない。)

以上が『ミミズクと夜の王』についての、私の主たる感想です。初見の観客に物語の「主張」を汲み取らせることが非常に難しかった作品だとは思いますが(私の感想はあくまで一人の観客がこの劇だけを観て感じた戯言に過ぎません)、同志社第三劇場の皆さんは、各々の素敵な個性を感じさせる演技を披露して愉しませて下さいました。何より、「人間の持つエネルギーは凄い」という、私がこの物語から主観的に感じたメッセージを演者一人ひとりが身体を張って証明してくださっていたように思いました。同志社第三劇場の皆さん、本当にお疲れ様でした。ありがとうございました。

ちなみに、個人的に見事なハマり役を演じていたように思うクローディア役の女性が、劇中の迫真の演技とは裏腹に、クロージングの告知等で告知内容をど忘れしたのかアタフタしていたのですが、そのギャップがなかなかグッド(?)でした。

そうそう、観劇後、新町から今出川駅まで戻る道、夜空をふと見上げると、月は高く昇り、ますますその輝きを増していました。