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『永い言い訳』を観て、感じたこと、考えたこと。

「悲しみをきちんと引き受けるということ」について考えさせられる物語でした。これはフロイトが「対象喪失」と「悲哀の仕事」という言葉を使って説明してくれているみたいですね(原典にあたっていない)。例えば、神戸児童連続殺傷事件の犯人である「少年A」なんかは、この「対象喪失」からの「悲哀の仕事」を「適切に」全うすることが出来ずに成長してしまった例として、(そしてそれによって悲惨な事件を起こしてしまったという因果関係で)各種報告書(高山文彦『「少年A 」14歳の肖像』新潮社、2001など)には記載されてますね。

 

「悲しみを引き受ける」ということは、小説家・村上春樹もよく彼の小説で表現していることですよね。彼の最新短編集『女のいない男たち』の中で大好きな、(いや彼の短編小説全体でも大好きな)彼の短編小説「木野」は、妻を失った男が、その悲しみを適切に引き受けなかったことによって彼自身が損なわれ苦しんでゆく底無しに悲しい物語だし、また、重きが「引き受ける(打ちのめされる)」ところから「立ち直る」に移る過程でいうと、同じく私の大好きな中長編小説『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は、友による裏切りによって毎日死ぬことばかり考えていた青年が自らを回復させようと「巡礼の旅」に赴く物語だよね。

 

(私の映画の感想ではいっつも村上春樹の作品が顔をひょっこりみせているし、今回も村上春樹ステマかよって思われるような、本作に全く触れないイントロだったけど、それくらいテーマの共鳴度が私にとって大きかったということ。)

 

私はこの映画を、というかこの映画の衣笠幸男を観るのが辛かった。それはまるで自分をみているような、自分の声をカセットテープを通じて聞いているような、不快な感覚だった。私は彼が嫌いだ。ほとんど憎んでさえいる。それは取りも直さず、自覚している自らの一番嫌な本性を、人前で勝手にひけらかされているような侮辱的な感覚を伴ったからだった。

 

衣笠幸男は作家だ。弔辞や、失った妻についての様々な問いかけにこたえる作家の言葉が、あれほど空虚に感じるのだから滑稽だった。そもそも何も思っていない、何も感じていない、本当にからっぽなのだから、何も出てきやしないのに。それをそれっぽく繕って言葉を紡ぎ出しても、空回りするばかりだ。インタビューで語る言葉、失った妻の同級生の夫、陽一さんを励ますような言葉、陽一さんの息子・健心くんへのアドバイスのような言葉、それら全てが、彼の「醜い」部分を知っている我々観客には空虚に聞こえるし、綺麗事ばかりを作家的言葉を駆使して述べる彼に「じゃ、お前は、お前の実際は、どうなんだよ」と問わずにはいられない。

 

必死に「演技」しようと努める彼も、ドキュメンタリーの撮影風景での彼より様子をみていれば分かるように、自らが「演技」することを強いられることは好まないし、自分は人を愛さなくても、人には愛されていなければならない。余りにも身勝手で空虚な生き方に、愛人すらも愛想を尽かす。「あなたは、いま私を抱いているんじゃない。」という言葉は、坂口安吾の短編小説「私は海をだきしめていたい」を思い出させる。ここで「海」は、不感の象徴である。

 

だかしかし、そんなことは、つまり彼の「醜い」部分は、彼が彼自身で一番よく分かっている。だからこそ、彼は語気を荒げて、その「醜い」自分を、「それっぽい言葉」を駆使しながら、必死にかばおうとする。親類を失い悲しみに暮れていた自分を救ってくれたという、ドキュメンタリーでの「演技」で語られた、衣笠の上っ面で作家的な有難い言葉に、親しみと共感を込めて衣笠に近寄づいてきたこども科学館の学芸員・山田さんに向かって、怯えに似たような表情を見せながら、幸男は「口ではどうとでも言えますよね。」と嘲笑さえ浮かべて突き放す。しかし、「幻滅させました?ごめんなさいね。」とおもてヅラは飄々として突き放した彼も、どこかで自分のこの「醜い」部分を晒し出したい衝動に駆られながらも、隠し通すしかない自分に嫌気が差していたのではなかったか。宴会で泥酔した彼の言葉の節々からは、「誰も「本当の俺」を分かってくれない」ということに、ある種恍惚にも似た自己満足しながらも、自己嫌悪に陥り、苛立ち、寂しがってさえいるように感じたのは私だけだろうか。

 

それに対して、陽一の対象喪失への反応は「まっすぐ」だった。失った妻を直向きに愛していた、やましいこともしていない陽一が語る悲哀は、幸男のそれとははっきりとしたコントラストを生み出していたし、それが幸男にとっては何よりも辛かったことではないだろうか。つまり、自らの家に頻繁に出入りしながらも幸男の葛藤について何一つ知らない陽一と、その陽一が遠慮なく露わにする悲哀の感情を作家的言葉で慰める心労を迫られる幸男とが一見良好にみえる交流を続けるよって、幸男のコンプレックスが悪化するのは明らかだし、この「わだかまり」がいつか爆発しないわけがない。

 

けれど重要なことは、(幸男が感じているのが「コンプレックス」だなんて今言ったばかりだけど、)物語全体を通して、「どちらが正しいのか」なんていうことを考えさせようとしているのではないようだということだろう。あくまで「どっちの生き方だってあるんだよ」という、一つの提示に留まっているに過ぎない。物語世界全体を貫くこの軸は、子供を持つことについての是非についての作中の議論をきけば明らかだろう。どっちの生き方だってある。けど、どっちの生き方だって苦労はあるんだよ、ということ。(「苦労」や「不幸」については語られても、「幸福」については「必ずしも不幸ではない」という、「不幸」否定形で語られるに留まり、直接積極的にはには語られていなかったように思う。)

 

さて、物語が進むにつれて、幸男(と彼の家庭)と幸男の間にある根本的な生き方の差異によって生じる「しこり」のようなものが大きくなってゆく。そしてその「しこり」の明滅と共に、物語は大きく波打つ。特に幸男が陽一に自らの「醜い」部分を晒け出してから、彼の言葉に微妙な変化がみえる。言葉が虚から実へと向かうような感覚。特に、父を迎えにいく電車内での健心と幸男との対話で。幸男が、まるで健心を鏡としているかのように、健心に語りかける自らの言葉を、一言一言噛みしめるカンジが伝わってきて、なんとなくだけど、「彼はこれから変わるんだな」と感じた。陽一も陽一で、「醜い」幸男の生き方を決してあからさまに否定はしなかった。新作発表記念のパーティで、にっこりと彼に微笑みかけていたのだから。

 

内面の変化と、外面の変化はシンクロするもの。まずは髪を切るというところから。妻の葬式で「これから私の髪は誰が切ってくれるのでしょうか。」と幸男はいう。それから幸男は一年、髪を切らなかった。妻がオーナーを務めていた、妻のことを慕っていた美容院のスタッフからは、理屈をつけて妻のお見送りをさせなかったからだろうか、幸男は嫌われている。まずはこの美容院に足を運ぶことから、彼は一歩を踏み出したのかもしれない。そして、部屋の片付け。妻の死後以降部屋は荒れ放題だったが、きちんと片付けをする。妻の遺品も整理する。気持ちの整理とは、必ず身の回りの物理的な整理具合と呼応するものである。このような「巡礼」を経て、何かが変わるという予感はあるが、それが何かは分からないままに、物語は幕をとじた。

 

私は、人間は「醜い」部分があってもいいと思うし、言っていることと行っていることが矛盾していたって構わないと思っている。私は、むしろそういう倒錯した人間のほうが惹かれるし、弱いくせに強がった口を利く人なんか大好きなくらいだ。(そして私は、傲慢な言い方かもしれないけど、そういう「人前でインモラル発言を連発して悪態吐く、弱くて繊細なくせに強気な人」と一対一でじっくり話すと、必ずと言っていいほど「お前といると落ち着く」と言われたし、僕もいちいち心臓に悪いけど嫌いじゃないと思ってきた。)だって。「普通」で「綺麗」な人なんて、正直つまらない。

 

私は私のことをひどい人間だと思うことがある。恥ずかしくなるくらい、冷酷・残酷だと思うことがある。でもそのくせ、涙脆いところだってある。人の優しさに触れてキューっと胸が締め付けられる、人知れず微笑むことだってある。一方で、人にやさしくされると冷たくあしらいたくなるし(例えば今私はホスピタリティの高さで定評のあるスタバにいるけれど、愛想よくされればされるほど冷たく対応したい子供染みた衝動に襲われることが多い)、人にやさしくして冷たくあしらわれると、その人をとことん憎む人間でもある。そんな私が、私、案外好きだ。なぜなら、私はそれを上手くコントロールしていると思うからだ。でもちゃんとコントロールするためには、とんでもない量のエネルギーがいる。自らの真っ黒い部分と真っ白い部分とそれ以外の部分をうまく統率して自分が自分のせいで分裂してしまわないように、ものすごいエネルギーがいるんです。そしてそのエネルギーの補給のために、私は物語の世界に飛び込むのだと今日、なぜか、本作を観て、感想をぽちぽちとまとめながら、確信出来たような気がします。物語は私たちに、どのようにして生きるかという一例を示してくれるからです。それが「あり得そう」とか「あり得ない」とか、そんなのどうだっていい。「こんな生き方もあるんだ。」と教えてくれることで、そして未知の生き方を求めて飽きもせずページを繰ることで、このろくでもない自分とろくでもない世界を強かに生きようと、私はこれから何度も、何度だって思うのだと思う。

 

最果タヒさんのエッセイ集『きみの言い訳は最高の芸術』の中でタヒさんは言う。「生きることは、言い訳をすること。」なんて端的で、清々しい定義の仕方なのだろう。私たちは自らの「生きる」という行為に対して、生まれてから死ぬまでずっと続く「永い言い訳」をするのだ。そして私は、私なら、その「言い訳」が、たとえそれがどんなに「怯懦で迂遠」にみえる生き方であっても、自分でもとんでもなく醜いと思う生き方であっても、その「言い訳」を「素敵ですね」だとか「最高の芸術」だとか言ってくれる、そのただ一人でもいいからその一人と出会うために、そしてその出会いを大切にするためだけに懸命に生きるような、そんな人生を積極的に歩んでいきたいという思いを新たにしました。

 

以上、京都Porta店のスターバックスより、iPhoneでぽちぽちと打っておりましたが、そろそろ疲れたので帰ります。おやすみなさい。Thanks for Thanksgiving Day!