『この世界の片隅に』を観て、想ったこと、感じたこと。

この世界の片隅に』を観てきました。

 

「日々を生きるということを突きつけられた」気がします。

すごく抽象的であるうえに、自己撞着したような感想ですが、私が感じたことはこの言葉に収斂されると思います。

 

「突きつけられた」という言葉を使っていますが、押し付けがましいものではありません。描かれているのは、戦争前から戦争直後を生きた、ごく当たり前の人々の生き方の一つです。そこには、「ここ(の場面)(の描写)に特に注目してほしい」というようなメッセージも感じられません。「ある時代、ある場所で、このようにして生きる人々がいました。」本当に、これだけだと思うんです。

 

あたたかい映画だった。そして、背筋が伸びる思いがした。

人は人と支え合って生きていた。衣・食・住、まかなえるものはすべてじぶんたちでまかなっていた。人は木と違う。「人木石に非ず」というのは、木石よりも人を優位とした思想だ。だがどうだろう、木はひとりでちゃんと立っていられるじゃないか。石は他の石を求めることはないじゃないか。人はひとりで立つことすらできない。支え合って、頼りあって、求めあって生きている。それがそもそも「人」という字のおこりだろう。そして、ひと昔前、人は、じぶんで生きるために必要なことは、おかねをバンッとおいて解決するのではなくて、まず自分たちの手で、できることをしようとしていたのだ。着るものは、自らの手で仕立てるところからはじめる。その技は、親から子、あるいは祖父母から孫へと、手から手に受け継がれていく。いま私たちは、どこの誰が作ったのかわからない、身体に絶妙に合わない既成服をきている。一枚の布から、じぶんの身体に合う「もんぺ」をつくること、これができる人が今どれだけいるというのだろう。住まいのことも、そうだ。みんな火を焚くところから、天候を気にしながら洗濯物を洗い、干すことからはじめる。ボタンひとつでご飯ができることもないし、お風呂も沸かすことができない。虫だって入ってくるから、砂糖は高いところに置く、蚊帳を吊るす。防空壕も、じぶんたちで作り上げる。食に関しては、最も暗鬱たる気分になった。いま当たり前にお金と交換して入手できることができる食べものが手に入れられなくなったとしたら、私は生きる術を知らない。食べられる草をどうやって判断し、見つけ、調理するというのだろう。それら知恵を教えてくれるのは、人だ、その人の口だ、手だ。家族もそう、ご近所の人もそう。みんなでみんなにお互いさまだと教え合っていた。そうやって、生きる術をわがものとしていた。皆、限られた食ざいを一生懸命工夫して、これはまずい、これはうまいをいいあって、試行錯誤しながら学んできた。

 

そうだ、「突きつけられた」という言葉を、もう少し率直に言い表すとしたら、「ただただ羨ましかった」だろうか。その羨ましさは、映画で描かれていた人々の<生きるという手仕事>の引き受けかたに、魅せられていたからかもしれない。

 

太平洋戦争の不穏な足跡が日常にも侵攻してきた時でも、人々の心の中に権力の支配は決して及ばなかった。戦争が終わった時、人々は自らの感情に素直に、言いようのない怒りを露わにした。わたしは詩人・長田弘『失われた時代』の言葉を思い出す。

 

 …1930年代の日本をもっともよく生きた詩人のひとりだった伊東静雄は、敗戦後、復員してすぐ軍服のままたずねてきた若い作家が、戦争中右翼的なことを強く主張し指導者面をしていた連中が早くもアメリカ仕込みの民主主義の指導者面をしていることに対する不快感を述べると、人間はそれでいいのですよ、共産主義がさかんな時は共産主義化し、右翼がさかんな時は右翼化し、民主主義が栄えてくれば民主主義になるのが本当の庶民というもので、それだからいいのですと、その軍服姿を戦争中のいやな軍部の亡霊をみたように不快がって、若い作家をおどろかせた、といわれる。

 その挿話はわたしにはとても印象的な記憶としてのこっているが、しかしこの伊東静雄のような「庶民」のとらえかたは、わたしにはまさに「本当の庶民」像の倒錯にすぎないようにおもわれた。わたしのかんがえは、ちがう。「本当の庶民」ということをいうならば、共産主義の時代がこようと右翼がさかんな時世がこようと、人びとはけっして「共産主義化」も「右翼化」も「民主主義化」もせず、みずからの人生を、いま、ここに<生きるという手仕事>として果たしてゆくほかないだろうからだ。

 <生きるという手仕事>を果たすという生きかたは、だから、そのときそのときの支配の言葉をひさいで生きのびてゆく生きかたを、みずから阻んで生きるわたしの生きかたなのだ。

 […]その行為は意識的にせよ無意識にせよ、社会の支配をささえるようにみえながら同時に社会の支配をみかえす無名の行為のひとつとして、社会の支配のついにおよばない自由を生きる本質をふかくそなえていたはずだ。…

 

時世が変わればそれに人々が阿諛追従するなど、それこそ「本当に庶民」像の倒錯だと喝破するのが快い。人はそんなにやすやすと変わりはしない。しっかと地に足つけて、その身相応に「手仕事」を引き受けわがものとするのが人というものだ。そうして、ただただ「みんな笑顔で暮らす」道を模索し続けるのだ。

 

映画の中で、すずが軍艦を写生しているところを憲兵達が咎める場面がある。憲兵はすずの家のもの全員に、これがいかに恥知らずな行為であるかを大真面目に説いて叱責し、それを聞いてすずの一家は顔を真っ赤にして震えて聞いている。その場面だけを見ると、あまり知識のないわたしは、憲兵に怯えているのかと思っていたのだが、実際はその時、みんな必死に笑うのををこらえていたのだった。「軍艦を遠くから写生するだけで一体何の機密が漏洩できるって言うんだい」と、(すず以外)みんな抱腹絶倒する。また、別の場面、すずがお義父さんのお見舞いに病院に伺った時、寝台の一角に備えられたLPレコード盤から流れる「敵性音楽」のジャズに患者達がうっとりと聴き入っていた…。

 

そうなのだ、「庶民」の精神は、そうやすやすと「権力」には支配されない。

その精神は、「社会の支配のついにおよばない自由を生きる本質をふかくそなえている」というのは、

まさにこの映画の中で主だって描かれるすずとその周辺の人々の生きざまにふさわしく、贈るべき言葉であって、

だからこそわたしは、わたし自身この「自由を生きる本質をふかくそなえ」た生きかたに憧れる者として、

当たり前の日常を描かれることが、わたしにとっては激しい嫉妬を生じさせるような、

あざとい「みせつけ」に感じられ、悶えたのだと理屈をつけようと思う。

 

 …生きることをじぶんにとっての<生きるという手仕事>として引き受けること[…]

 それがどんなにいかなる政治体制のもとに圧されて果たされる生であるようにみえ、また「血も流さなきゃ、祖国を救いもしない」生にみえようと、ひとがみずからの生を<生きるという手仕事>として引き受け、果たしてゆくかぎり、そこにはけっして支配の論理によって組織され、正統化され、補完されえないわたしたちの<生きるという手仕事>の自由の根拠がある、という考えにわたしは立ちたい。<生きるという手仕事>は、それがどんなにひっそりと実現されるものであろうと、権力の支配のしたにじっとかがむようにみえ、しかしどんな瞬間にもどこまでも権力の支配の上をゆこうとするのだ。

 

今までわたしが学んだ歴史とは、庶民の目に映った日常を奪い去ったまがいものの集まりなのかと疑わざると得なかった。戦時中のいかなる標語(例えば「欲しがりません、勝つまでは。」など)も、権力側のイメージ操作の喧伝にすぎなかったのか。ああしろこうしろと権力側に言われても、その権力側が何をしているのか、戦争に勝っているのか負けているのか全くわからない。だけど、そのわからない中で、「いま、ここ」を生き抜くために、自らの<生きるという手仕事>を引き受ける姿勢というものは、私にはとても格好良く映った。

 

玉音放送で戦争が終わったことが告げられた時、私たちが歴史の教科書等で目にするのは、地面に突っ伏して、天皇陛下に土下座をしていると思わせられるような姿ばかりだ。でも、決してそうではない。「本当の庶民」は、天皇陛下という、善悪つかぬ抽象的な象徴に何の感情も持ちあわせてはいない。映画の中で、玉音放送が終わった時、すずの家族はみな平然とした風に、「さ、戻りましょう。」といつもの日常に戻っていった。だがそこに、感情がなかったわけではない。「土下座」は、確かにあった。だがその「土下座」は、悲しみは、怒りは、爆弾で失った我が子や、「みんなで笑顔で暮らす」生活を理由のない暴力で奪い去った戦争に対してだった。

 

私は、すず達に激励の言葉を贈りたいと思う。それはまず、あなた達の生き方が私に勇気とも嫉妬とも言えない妙な力を与えてくれたことへの感謝の言葉だ。そして、あなたたちの生き方は、権力の支配に従うようにみえながらそれを超越した自由なこころを備えているのだという畏敬の言葉だ。あなた達は、とても立派でした。わたしは、自ら信ずるところに従い、少しでもあなたたちに見習い、わたしの<生きるという手仕事>を全うしていきたいと思います。